Yokohama Choral Society
-横浜合唱協会-

横浜合唱協会・常任指揮者 八尋和美 先生とG.C.ビラー氏

八尋和美先生

八尋先生(左)と談笑されるビラー氏(中央)、写真右は会員兼通訳(?)の故齋藤
第二次ドイツ演奏旅行、ライプツィヒ聖トーマス教会にて(2002.08.10)

1997年・2002年・2008年・2015年と横浜合唱協会は、バッハが活躍したドイツ・ライプツィヒ・聖トーマス教会にて、演奏会形式ばかりでなく礼拝式にもトマーナ・コア(聖トーマス教会合唱団)の代役として、歌わせていただくことができました。これには八尋先生をはじめとした諸々の縁により実現する事が出来ました。

その縁の元となった八尋先生とビラー氏の縁について、以下に載せました。「ライプツィヒ回想」が横浜合唱協会25周年記念誌(1995年12月)に、「ライプツィヒの出会い」が横浜合唱協会ドイツ演奏旅行記念誌(1997年11月)に、それぞれ八尋先生より寄稿していただいたものを全文載せました。内容的には順序が逆になりますが、八尋先生とビラー氏の出会い、そして横浜合唱協会との関係を紹介いたします。

(Web管理者)

 

ライプツィヒ回想

八尋 和美

1990年10月3日、ドイツ統一。

1983年、私が文化庁在外研究員として旧東独のライプツィヒに滞在の際、一人の才能豊かな音楽家と知り合った。名は、ゲオルグ・クリストフ・ビラー(Georg Christoph Biller)、当時まだ27歳、トーマス教会聖歌隊出身、ライプツィヒ・メンデルスゾーン音大の指揮科を出て、「指揮者」「バリトン歌手」「作曲家」として、三つの分野で活躍している。

指揮者としては、彼自身の創立によるヴォーカルクライス室内合唱団、及び120年の伝統を持つゲヴァントハウス合唱団の指揮に当たり、バリトン歌手としてはおもにオラトリオを歌い、1985年と90年の二度、トーマス教会聖歌隊のソリストとして来日している。

昨年(1990年)8月14日残暑厳しい午後、このビラーから手紙が来た。あの激動の騒ぎの中を、どうなるかと心配していた矢先だったので早速封を切る。手書きのドイツ文字は、いつもの事ながら判読に時間がかかる。遅々たる歩みで読み進むうちに、私にとって只事ではすまされない言葉がいくつか目に入ってきて、丁度午睡の後だった私の眠気を、一気に吹きとばした。内容は「今年10月8日に、ライプツィヒペータース教会で統一を記念する『平和の祈り Friendens Gebet 』があります。その祈りに私のヴォーカルクライス合唱団の指揮をお願いしたい。曲はあなたも多分気に入ってくれると思うが、バッハのモテット『み霊はわれらの弱きを助けたもう』で如何でしょうか」というもの。更にその為の2回の練習日時も書き添えてあった。

合唱ファンならずとも、バッハの活躍したライプツィヒで、バッハの音楽、とりわけ「受難曲」「ミサ」「モテット」などの宗教曲を聴く事は、一つの大きな夢である。私もその一人ではあるが、而し自分自身でバッハをその土地の人の前で演奏するとなると、話は別である。それも音楽ホールでのコンサートならともかく、教会の「祈り」の中でということは、全くバッハ時代と同様に、宗教儀式の中の音楽として扱われるわけではないか。その中で異教徒たる自分がバッハを振って、会衆に宗教的な満足を与える事が出来るものかどうか。この上なく得難い機会だが不安は大きい。

ビラーは1985年に来日した時、一度だけ横浜合唱協会で、私の指揮したバッハを聴いた事がある。その際に、私の指揮ぶりや音楽の作り方を見極めて帰った筈だ。その上でKazumi Yahiroで良いというのなら、私がためらう事でもないではないか。ひとりよがりのこの様な判断をして、彼にOKの返事を出した。

1990年9月21日成田発、先に予定してあった習志野菊田女性合唱団の西独での3回のコンサートを指揮した後、9月30日フランクフルトから列車でライプツィヒへ向かう。7年前に一人旅したコースだが、今回は妻を伴う。途中国境駅通過の際は、ビザも不要だし荷物の検問もなく、昔の恐怖感はあとかたもない。7時間の長旅の後ライプツィヒ駅に到着、ホームに出迎えたビラーと5年ぶりの再会。彼は以前より太って貫禄がついた。駅を見まわすと相変わらずすすけて、西側に較べ経済状態の悪さを反映している様だ。

だが東西ドイツ統一の10月3日を控えた町中は、7年前に来た時とは比較にならない自由な雰囲気に満ち溢れている。

到着した翌日から殆ど毎日、ビラーは多忙なスケジュールの合間を縫って、私達を車で方々へ案内してくれた。

或日ドレスデンへの長いドライブの間、彼はカーカセットで、私が今度振るモテットのテープを流してくれた。5団体の演奏を編集したもので、様々な解釈をくり返し聴きながら、彼は自分の批評を加える。幼少からトーマス教会で、最も正統的なバッハを身につけている筈の彼が、この様な聴き方をするのかと、私は妙な安心をした。

統合前日10月2日の夜、ビラーは他のソプラノ、アルト、テノールの仲間と共に、クルジェネーク(Ernst Krenek)の作品である現代室内オペラを、演奏会形式で上演した。難しい音程やリズムが随所に出てくるが、彼らは音楽としての楽しさをどこ迄も追求する姿勢を崩さない。その夜、出演したまだ若く美しい二人の女性歌手、デブで愉快なテノール歌手、ビラー、それに非常に切れの良い演奏をした男性ピアニストの中に私共二人加わって夕食をする。とにかく彼らは良く飲み、良く食べ、良く喋る。やがて記念すべき東西ドイツ統一の10月3日になり、外で花火がはじけると、このレストランの中ではあちこちで乾杯のグラスが鳴る。而しどちらかと言えばここでは、静かに感慨に浸っている人が多い様だ。我々の席のお喋りは次第に白熱し、いつ果てるとも知れない。内容を解りかねている私達にビラーが説明してくれる。「今我々は西側と東側の音楽について話しているのだ」と。「現在のライプツィヒの音楽界に人々は満足していない。クルト・マズア、ノー。ロチェ(トーマス教会聖歌隊指揮者)、ノー。ポンマー(放送交響楽団指揮者)、ノー」日本人がどきりとさせられる様な発言がまだ続く。「テオ・アダム、ノー。シュライヤー、まあまあ」等。西側に較べ、今までの政治体制同様に、東独の音楽の硬直化を指摘しているのだ。

夜中を2時を回った頃私達がホテルに帰って部屋に入ると、テーブルにシャンペンが置いてある。ホテルの支配人からで、統一記念日の乾杯にどうぞという事だ。ビラーとテノールのマルティンは我々を送り届けた後、更に明け方5時過ぎ迄飲んだそうだ。そしてこのマルティン、その日の夜のオペラ、ベートーベンの「フィデリオ」を歌うのだから、いやはやそのタフさには、全く脱帽である。ちなみに彼は、ゲヴァントハウスオーケストラの元コンサートマスター、ボッセ氏の娘婿である。

或日のタ方、私達はビラーに案内されるままゲヴァントハウスのホールに行く。ここの大ホールは、我が国のサントリーホール同様客席がステージをとり囲んでいる。グレイを基調にした内部は、極めて落ちついた雰囲気がある。小ホールヘ行くと、その日はゲヴァントハウス合唱団の練習日という事で、百人程のメンバーが集まっていた。ビラーが私を紹介した後、彼らは歓迎の歌を歌ってくれた。嬉しくて上気している私に、何か指揮をしろと言う。いきなり渡された彼らのレパートリー曲の中から、モーツァルトの「アヴェヴェルムコルプス」と、シューベルトの「聖なるかな」を選んだ。私が振り始めた途端の彼らの真撃な眼差しと、質素な服装とは余りにも対照的な上質のハーモニーに、戸惑いを感じながら、至福の時を味わった。

10月8日「平和の祈り」に演奏するバッハモテットの練習は、10月5日夜7時と、6日朝10時の2回である。5日の日は朝から私はフリーでいたいと、ビラーに申し出てホテルに閉じこもった。私自身何度もステージで振った曲とはいえ、もう一度楽譜を見直して、初対面の合唱団に臨む気持ちを整理したかった。

ヴォーカルクライス合唱団(Vocalkreis Leipzig)の練習場は、ライプツィヒ郊外の古びた建物の中にあった。ビラーに導かれて、いよいよ30人程のメンバーの前に立つ。紹介された後は日本なら拍手だが、彼等は足で床を踏み鳴らして歓迎の意志表示をした。簡単に挨拶を交わした後並び方を確認する。今回は二重合唱なので、第一コーラスと第ニコーラスが左右に位置するのは当然だが、前からSATBがそれぞれ横一列ずつ4列に並んでいる。日本で余り見かけない配置だけに、興味深い。

さて第一声だ。ここ迄来たら私の解釈がどうであろうと、開き直る外ない。8分の3拍子のアウフタクトから整然たる音の流れが始まる。ビラー自身でテストをして集めたメンバーという事で、さすがに並々ならぬ実力がうかがえる。どのパートも、私の指揮に声ごと体ごとすぐに反応する。途中どうしても口で説明しなければならない箇所に出逢うと、私の乏しいドイツ語とイタリー語の楽語、後は身ぶり口ぶりで伝える外ない。それに答える彼らの眼差しは、鋭いが温かい。中でも、テキストに基づく表現の要求には、当然の事ながら極めて速やかに理解してくれる。又時々音を外す事があっても、絶対に調性の崩れがないのは、日本との大きな違いであろうか。指揮者にとって練習の時の経つのは早い。あっという間に終曲「コラール」に来てしまい、2、3ヶ所歌い方を直してもらったところで、この日の練習を終えた。ほっとした練習後、ホテルでビラーとタ食をとりながら彼の意見を聞いた。「あなたの指揮は全く明確で間題ないし、言葉による要求も百パーセント分かった」と言う。

翌日、練習も2回目になると、お互い初対面の固さがとれ、私も肩の力を抜いて練習を進める事が出来た。テノールの人数がやや少ないが、フーガ等でここぞという時は心得たもので、こちらでちらとそちらを見るだけで、通りの良い声が表に出てくる。アルトの声の豊かさは、まさに日本では聴かれないものだ。而し何といっても、コラールのハーモニーは安定している。どのパートも、全く揺れの無い声で、バランスを整えて歌ってくれる。

最後に全体を通す時に録音しようと、ウォークマンをセットしたら全員さっと立ち上がって歌ってくれた。練習結果に十分満足して、ホテルに帰ってテープをプレイバックしたら何も入っていない。マイクのスイッチを入れ忘れていた。残念! やはり私の精神状態も、少しおかしかった様だ。

本番前夜は、久しぶりに寝付きの悪さを味わう。今ライプツィヒの空の下、大バッハの町、そしてもう一人、私の好きな作曲家メンデルスゾーンが、ゲヴァントハウスオーケストラを創り育て活躍した町、更に音楽上の歴史を数え上げるときりがない町。そこで今、日本人の佛教徒、黒田武士の末裔たる自分が、バッハと同じドイツ人の合唱団を指揮して、バッハを演奏しようとしている。私の父も母も音楽好きであったが、この不思議な光景をあの世からどんな顔をして見ているだろうか。17年前千葉郊外の病院で、1年間もベッドで悶々としていた自分と、このホテルのベッドの上の自分との何という違い。幸せな戸惑いは果てしなく続く。

10月8日朝、窓のカーテンを開けると、正面にトーマス教会の塔、そして少し左手にゲヴァントハウスの建物が見える。やはり現実だ。朝食の時妻と向き合って昨夜の話をし、ほっぺたをつねりたくなったと言ったら、笑って「あなただから、こうなったのよ」と、分かった様な分からない様な答が返ってきた。

タ方4時に団員のミュラーの車、あの東独の国民車「トラバント」でぺータース教会へ行く。やはり古い建物だが内部の残響は素晴らしい。今日の聖歌隊席は正面祭壇前で、上からやっと譜面が読みとれるほどの明かりが吊ってある。一度通し練習をしたあと、ビラーから「ここは残響が多いから、ややゆっくり目のテンポが良い様だ」と、アドヴァイスを受ける。そのあと、私は合唱団に向かって本番前の挨拶をした。「私の名は和美です。Kazuはドイツ語でハルモニー、Miはシェーンの意味です。今日私はSchone Harmonie(美しいハーモニー)のドイッの為に、心を込めてこのモテットを指揮するつもりです」と。喋り終わった途端、彼等は盛大に床を鳴らした。

程なくこの教会に、質素な身なりのままの会衆が続々とつめかけて、「平和の祈り」が始まった。私はビラーと並んで会衆席に座る。最初に牧師が、合唱団、ビラー、私を紹介し、「今日の第一のお客様は東京からのKazumi Yahiro・・・・・・」と。周りの視線を感じて思わず身が引き締まる。それからの説教については、残念ながら私の語学力では理解出来ない。而しその牧師の説得力ある語り口に、今回の東独の変革に、教会が大きな役割を果たした事が感じとれる。この間時折り右隣りの妻が、ちらりと不安げにこちらを見やる。後で聞くと、意外に落ちついていて安心したとの事。確かにこの出番前は、私が今まで体験した何れとも明らかに違う時間だった。緊張感の中に得もいわれぬ平安の心があったのは、この教会の中の雰囲気の為であろうか。

やがて会が終わりに近づき、ビラーに促されて私は合唱団の前に、ビラーは今日歌うテノールパートの位置に立った。彼が歌い出しの音をとったあと全員が透明なハミング。次の瞬間私のバッハが響いた。過去幾度となくこの場所で歌われたに違いないバッハが、まぎれもなく私の腕の振りのもとにある。この時の感動を表現するには、私の筆は貧し過ぎる。曲は二重合唱から四声のフーガ、そして終曲のコラールヘと突き進んで行く。さすがに練習時の数倍の熱気がほとばしり、特にコラールでは、歌うメンバーの思い入れが、痛い程表現された様に思う。一番最後にハレルヤと歌い切ったところで、心地よいB dur(変ロ調)の残響が返って来た。その余韻が消えた後の、長い長い静寂・・・・・・。誰も身動きしない。恐らく一人一人がこの静けさの中に、平和への祈りを浄化させているのであろう。私の体内は、いつもの様な、演奏終了後の拍手を受ける時の興奮は無い。只立ち尽くしたまま、全てを包み込む様な甘い静寂の中に、いつ迄も身を浸していた。

「平和の祈り」集会が全て終わり、老若男女の会衆が帰路に着き始める。再びビラーに促されて、合唱団の前に立った私に、女声メンバーの一人が、小さな花束と、合唱団全員がサインをしたこの日のポスターを差し出した。何の飾り気もなく束ねた花と、燻んだ紙質のポスターが、私にとって何と高価な贈り物に見えた事か。ビラーと共に控室に戻ると、すぐに後から入って来た牧師の太い手が、私の手を握った。明らかに感動の表情で、「トマーナ・ガイスト Thomaner Geist (トーマス精神)」と一言。それにビラーがうなずく。

ホテルヘの帰りの車の中で、ビラーが「あの牧師は3年前迄、トーマス教会の牧師を勤めていた」と説明してくれた。それからホテルの我々の部屋にビラーを招き入れ、あの統一記念日のシャンペンで乾杯! その時ビラーが言う。「今日のバッハモテットは、トーマス教会でもニコライ教会でも、ゲヴァントハウスでも、今のライプツィヒでは聴く事の出来なくなった素晴らしいモテットだった。特に終曲コラールに、私もあの牧師も、トーマス精神を見たのです」と。

翌10月9日、いよいよ私達は帰国の途に就く。10日間ずっと世話をしてくれたビラーが、この日も早朝から自分の車で、私達と旅行荷物を、ライプツィヒ空港迄運んでくれた。彼は、「献身」という言葉を、そのまま実行し、その言葉の意味を、私達に改めて問い直させてくれた素晴らしい青年だった。

私達の乗ったジェット機が離陸すると、眼下に、東独の野や森や町並みが広がる。そこには、今後まだまだ苦難の道を歩むであろう人々、而し、如何なる苦難の中にも、眞の美しい音楽を失わない人々に幸あれと祈る。

そして最後に心の中で叫んだ。「ビラーよ、素晴らしい体験を有難う!」

追記
 ビラー氏は、この後11月23日に、トーマス教会聖歌隊のソリストとして来日、全国各地でのバッハ「マタイ受難曲」演奏会で、イエス役を歌った。
 最近のライプツィヒからの情報によると、ビラー氏は今年(1992年)8月、第31代トーマスカントールに就任する。J.S.バッハから数えて実に16代目に当る。

 

ライプツィヒ回想

八尋 和美

今回の演奏旅行の成功は、ビラーさんを抜きにしては考えられない。そこで、彼との出会いのいきさつを書いてみようと思う。

『文化庁芸術家在外研修員』という、長くて固苦しい名前がある。文化予算の少い我が国には珍しい国費留学制度で、美術、音楽、舞踊、演劇の四部門から、毎年30人程を送り出している。

昭和57年度(1982年)の研修員に、私は幸い選ばれた。同期研修員の中に、畦地慶司(あぜちけいじ)さんがいた。彼は邦楽畑で、胡弓と作曲が専門である。留学準備段階で何度かお会いするうちに、気安くお話し出来る間柄になった。畦地さんの留学先は韓国のソウルで、研修員の中では最も近い地域であろう。お互い立揚なり希望を語り合う中で、私は是非とも東ドイツ(この時点で、東西は分断された国家である)の、ライプツィヒやドレスデンの合唱団を訪ねたいなどと話した。畦地さんは『ライプツィヒは昨年、日本音楽集団のメンバーとして行きました。あちらにいる日本人を知っているので紹介しましょう』と言って、一人の女性の住所を教えてくれた。ピアニストで楽器史研究家の小田理枝(おだりえ)さんである。彼女が、一年前の同じ文化庁研修員である事は、あとで知った。

早速ライプツィヒの小田さん宛に手紙を書いたら、程なく返事が来た。彼女は、ゲルハルト・ボッセ氏の下で勉強しているとの事、以下小田さんの手紙を引用する。

 前略『さて、八尋さんからの手紙の主旨をボッセ教授にお話しいたしましたところ、ご存じとは思いますが、彼はゲヴァントハウスオーケストラの第一コンサートマスターであり、又バッハオーケストラの指揮者でもあるので、ご希望の3つの合唱団のプローべと演奏会について、トマナコアとルントブシク(放送合唱団)は自分が協力しましょう。そしてうまくいけばロッチュ(当時のトマスカントール)に話して、クロイツコアドレスデンの指揮者Prof.何とか氏(フレーミヒ)に頼めると言ってくれました。そしてゲヴァントハウスコアも聞くようにとのことでした。
 この国では、演奏会のプローベを一般に聴くことは禁止されているので、とても困難ですが、ボッセ教授といえば、東ドイツ最高の文化功労者として名高いので、きっとうまくいくでしよう。』(後略)

ボッセ教授が最後に勧めてくれた、ゲヴァントハウス合唱団なる名前を、この時私は知らなかったので、何となく読み過ごしていたが、これが後々重要な関係を持つ様になる。

ライプツィヒを訪れたのは、1983年2月14日である、ヨーロッパで一番大きいといわれる駅に着き、その巨大な鉄傘を見上げながら、駅舎の外に出ると、一面の雪である。その中に建ち並ぶビルが、西側よりかなり黒ずんで見える。東ドイツだけで見られるトラヴァントという小型自動車が、健気に雪をけたてている。駅近くのホテルにチェックインして、すぐに自分の部屋からボッセ教授に電話をした。女性の声がして、電話口はボッセ夫人だった。『主人は演奏旅行で不在です。でもあなたの事は伺っています。どこかの合唱団に連絡して、明日もう一度電話しましょう。』との事。ひとまず連絡がとれて胸をなでおろす。

2月15日午前中に、前日のボッセ夫人から電話が来た。『トマナコアと放送合唱団は残念ながら休暇中です。でも今夜ゲヴァントハウスコアの練習がありますので、その指揮者に話をしておきました。名前はゲオルク・クリストフ・ビラー、若くて親切な男です。今夜7時に、ゲヴァントハウスの楽屋入口で待ち合わせて下さい。』との事だ。昼間のうちにトマス教会、ニコライ教会、オペラ劇場をめぐって、更にゲヴァントハウスの裏に廻って、夜の待ち合せの為の楽屋口を確かめておいた。

約束時間の7時少し前、その楽屋口で、守衛の小父さんに訳を話して、中の椅子に座って待つことわずか、防寒コートに身を包んだ、スマートな長身の青年が入って来た。私の前に歩いてくると、パッパッと左から右と手袋を脱ぎ、右手を差し出してきた。この時の非常にリズミカルな一連の動作と、大きな手の温かさが、終生忘れられないものとなった。この夜の練習からビラーの練習を見る為に殆んど毎日ゲヴァントハウス通いをするのだが、この間、私自身の日記を振り返って見る事にする。

2月15日(火) Leipzig 曇
 『それにしても、今日紹介して貰った合唱団の指揮者は、素晴らしい人物だ。ボッセ夫人が、若くて親切な男と言っていたが、正にその通りだ。又、練習を見ていると、若いのにつっ走るところもなく、内には並々ならぬ実力を秘めている様に見える。練習の合間に少しだけ弾いたブラームスの「運命の歌」のピアノの音色を聴いても、かなり高度な音楽性がうかがえる。そのくせ、あまりピアノを使わないで練習する。西ドイツの合唱団でもそうだったが、発声練習には全くピアノを使わない。何もピアノのピッチに合せる必要はないのだから、その方が喉の為に良いのだろう。日本でも一考すべき間題だ。ビラーはトマナコア出身だそうだ。長い伝統を身につけている筈だから、ここではずっとつき合うつもり。ゲヴァントハウスは、140人の大合唱団、30人の室内合唱団、50人程のユーゲントコア、それにキンダーコアの4団体を運営しているという。それを一人の優秀な指揮者が、一貫した教育をしている。素晴らしいシステムだ。』
2月18日(金) Leipzig 曇
 『ボッセ夫人から電話が来た。カールマルクス大学合唱団のプローベ案内と、合唱指揮者ゼミナールの催し事などを知らせてくれた。いつも気に留めて頂いている事に感謝。
 ゲヴァントハウスは今、室内合唱団が演奏会(20日夜、小ホール)前の練習で少々忙しい。それでも日本の様にピリピリした様子は、あまり見られない。プログラムが、古いものから現代作品迄多彩で面白い。Schubert「鱒」の変奏曲は、ケッサク。何より指揮者のビラーの人柄がよろしい。音楽的実力もあるし、将来トマス教会のカントールにでもなれる人だと見る。その点で、あと土曜日のG.P. 日曜日の本番と、まだ彼の色々な面を見られるのが楽しみだ。』

2月21日早朝、いよいよライプツィヒとも別れなけれぱならない。中央駅で西ドイツ行きの長い長い列車に乗り込んで、6人掛けコンパートメントの通路側に座って、滞在一週間の出来事、特に昨夜の室内合唱団演奏会の情景や音を思い浮かべながら発車を待っていた。不意に列車の窓をとんとんと叩く音、見ればビラーではないか。後で日本に送るからと言ってくれた、あの「鱒」の楽譜を、昨夜のうちにコピーして、きれいなファイルに入れてわざわざ持って来てくれたのだ。よくもまあこの長い列車の混雑の中で、私を見つけてくれたものだ。只々その誠実さに頭が下がる。『いつか是非日本に来て下さい』と言ったら、彼はかぶりを振って『三段跳びでも無理ですよ』という。彼の伯父さんも伯母さんも、皆西ドイツにいると言って、西側の空を仰いだ。いつも端正な彼の表情がゆがんだのを、初めて見た。私は自分の先の軽率な言葉を悔いた。この共産圏での、若者に対する厳しい制度を、理解していなかったのだ。

列車がゆっくり動き出した時、彼は少しだけほほえんで手を振った。

私にとって、素晴らしいライプツィヒの一週間だったが、好青年ビラーと、又いつか会える日が来るのだろうか。

あとがき

ビラーさんとの出会いは、私の生涯にとって、極めて重要な出来事のひとつである。

それにしても、一面識も無かった畦地慶司さん、小田理枝さん、ゲルハルト・ボッセ教授、ボッセ夫人、ビラーさんと繋がる、運命の糸の不思議さに感謝せざるを得ない。

ご承知の様に、ビラーさんは1985年にトマナコアのソリストとして来日、12月8目午後横浜県民ホールでバッハの「マタイ受難曲」に出演したあと、私の妻が楽屋口から連れ出し、同じ日の夜、県立音楽堂でのYCS演奏会を半ば強制的に聴いて貰い、その後のレセプションにも夜遅く迄つき合せてしまった。この日が、ビラーさんとYCSとの、記念すべき最初の出会いの日となった。

以後1990年の「ロ短調ミサ」、92年ビラーさんのトマスカントール就任、96年「ヨハネ受難曲」、そして今回のライプツィヒトマス教会での演奏、タールビュルゲル クロスター教会での演奏会と続くのである。

'97年8月10日朝、聖トマス教会に、ビラーさんの指揮する「Singet dem Herrn・・・・」が鳴り響いた時、14年前のあの出会いの光景が、目に浮んだ。『よくぞここまで・・』という深い深い思いで、この奇跡的な音の渦の中に身を任せていた。

1997.9.17

横浜合唱協会創立30周年パーティーが行われた時のことです。創立時の代表であった万年氏に当時のお話をしていただきました。その中で、「今日は、八尋先生ごめんなさい、と言いたかった」とのこと。ちなみにこの日は、運悪く早混の定期演奏会の日で、八尋先生は欠席。

そして、10年後、第59回定期演奏会の終了後の打ち上げと同時に創立40周年パーティーが行われました。この日は当然八尋先生は出席。で、同じく万年氏が「八尋先生ごめんなさい」と。

「ごめんなさい」の理由は、当時の指揮者の決定過程だったそうです。

1970年に「横浜でバッハを」を掲げて創立された横浜合唱協会でしたが、指揮者をどの先生にお願いするかを話し合う中で、東京混声合唱団の田中信昭先生にお願いするのが良いのではとなったそうです。さっそく、代表の万年氏を初めとする当時の役員数名が田中先生にお願いにあがったそうです。当時でも合唱筋では有名な方でしたから仕事も多く抱えられていたので、当然のごとく断られてしまったそうです。が、田中先生は適任者がいるからと、当時、胸を煩われて入院中だった八尋先生を紹介していただいたそうです。

意中の田中先生に断られ、仕方なく、あまり気乗りしない状態で八尋先生にお願いに入院先の病院へ伺ったのが「ごめんなさい」の原因。その後、紆余曲折がありましたが、最終的に八尋先生に当会の常任指揮者としてお願いすることとなりました。1973年のことだそうです。

そして、1997年・2002年・2008年・2015年と横浜合唱協会は八尋先生による縁で、そのバッハが活躍したドイツ・ライプツィヒ・聖トーマス教会にて、演奏会形式ばかりでなく礼拝式にもトマーナ・コア(聖トーマス教会合唱団)の代役として、歌わせていただくことができました。これには他の諸々の縁もありましたが、八尋先生に感謝する他はないでしょう。

(Web管理者)

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