
フォーレ(Gabriel Urbain Faure)は、1845年5月カトリック信仰の厚い南フランス、アリエージュのパミエに教育家の末子として生まれた。この時代のフランスはルイ・フィリップの統治下にあり、徐々に二つの革命(フランス革命)から遠ざかろうとしていた。すなわち「アンシャン・レジウム」の思いでは色濃く、生活信条に於いては18世紀からほとんど変わっていなかったが、工業国としての夜明けを迎えようとしていた時期である。また、芸術界はロマン主義全盛の時代であり、ユゴー43歳、ドラクロア46歳、さらにメンデルスゾーンは「ヴァイオリン協奏曲第2番」を、シューマンは「ピアノ5重奏曲」を書き上げており、ベルリオーズは「ファウストの却罰」を作曲しつつあった。
フォーレは幼い頃から宗教的環境に育ち、9歳の時にパリのニデルメイエール宗教音楽学校に入学した。彼は以降11年間をここに過ごすことになるが、教会音楽家を育てるべく組織されたこの学校でのギリシャ語ラテン語、フランス文学の古典を中心とした一般教育とともに、特にグレゴリオ聖歌についての研究は後のフォーレの音楽形成に重要な影響を与えた。その音楽教育とはニデルメイエールの娘婿にあたるギュスターブ・ルフェーブル(作曲家)が著した和声概諭の中に記されているが、そこでは当時のパリ音楽院(コンセルヴァトワール)で教えられていた独断的で、機械的に扱われる和音の連結に対して、断固として反対の立場がとられた。この教程の中では調に含まれない音変化を用いることによりより調整の概念を拡大するとともに、ダイナミックな観点と和声進行の柔軟性を強調したものであった。容易に行われる転調、頻繁に用いられる旋法性の借用など、彼の音楽の特徴を形成する全ての要素はニデルメイエール宗教音楽学校での教育なしには得られなかったものである。1860年フォーレ15歳の時にサン=サーンスがこの学校に赴任してきた。後年、フォーレが「私は、サン=サーンスに全てを負うている。」と述べているが、この師弟の出会いは、フォーレの人間形成一特に優雅、洗練、節度といったフランス精神の継承に多くの示唆を投げかけている。サン=サーンスは当時古典と宗教曲で占められていたこの学校のカリキュラムに対し正規の時間を延長してリスト、シューマン、ワーグナーなどの音楽を生徒たちに聴かせた。この事はフォーレたちにとって非常に大きな刺激となった。フォーレはサン=サーンスの指導で作曲を始めるようになったのは、先ず歌曲の分野であった。ニデルメイエール宗教音楽学校を卒業した年には「夢のあとに」「水のほとりにて」等の名作を含む歌曲集第1巻が出版された。その後、レンヌのサン・ソルヴェール教会のオルガニストをはじめに幾つかの教会オルガニストを歴任するが、その間多くの歌曲といくつかの宗教作品を残した。1871年には当時創設された国民音楽協会に参加し、ドビッシー、ラヴェルへとつながる近代フランス音楽の発展に大きな役割を果たすことになる。控えめではあるが、しかし精妙な美しさに満ちた彼の作品は次第に世の認めるところとなり、1896年にはマスネーの後任としてパリ音楽院の作曲家教授に迎えられた。その門からはラヴェル、シュミット、エネスコなどの大作曲家が輩出している。1905年に同音楽院の院長となる。1909年にはアカデミー会員に推された。1910年頃より動脈硬化症にともなう聴覚障害が彼を苦しめる様になる。1919年同楽院長を退任。1924年、最後の作品「弦楽四重奏曲」の草稿をまとめて間もなく家族に看取られて息を引き取った。パリ音楽院名誉院長、アカデミー会員、レジオン・ドヌール大十字勲章受勲者であるフォーレの死は、彼の「レクイエム」が演奏される中、マドレーヌ寺院で国葬を以て悼まれた。
この頃のフランスは第一時大戦後、第三共和制の下にあり、強国としての絶頂期を迎えていた。そのころには電灯、レコード、自動車、飛行機などが現れ、キュービズム後の抽象芸術も生み出されていた。カンディンスキー58歳、ピカソ43歳、メシアンは初期の作品を制作中、またシェーンベルクは十二音技法の原理を確立していた。
フォーレの作品はこのような世界の変化の中で、音楽的にも過渡期の様相を見せているが、彼は先ずロマン派の語法を取り入れ、ついで和声に重大な刷新をもたらした。彼は19世紀の音楽家であるとともに、20世紀の古典的存在と言うことが出来るが、その歴史的役割以上に大切な事