Yokohama Choral Society
-横浜合唱協会-

横浜合唱協会第43回定期演奏会曲目解説

第43回定期演奏会 曲目

G.フォーレの世界
G.Faure
G.フォーレ
(1845-1924)
  • 「ラシーヌ雅歌 Op.11」
  • 「タントゥム・エルゴ Op.65-2」
  • 「アヴェ・マリア Op.93」
  • 「アヴェ・マリア」
  • 「汝はペトロ」
  • 「タントゥム・エルゴ Op.55」
  • 「レクイエム Op.48」
指揮:八尋和美
ソプラノ:三塚直美
バリトン:北村哲朗
オルガン:水野克彦
管弦楽:東京クロイツ室内合奏団
合唱:横浜合唱協会
日時:1998年04月14日(火) 19:00開演(18:30開場)
場所:神奈川県立音楽堂
  (JR根岸線・横浜市営地下鉄 「桜木町」下車 徒歩15分)

 

第43回定期演奏会 曲目解説

G・フォーレの生涯

フォーレ(Gabriel Urbain Faure)は、1845年5月カトリック信仰の厚い南フランス、アリエージュのパミエに教育家の末子として生まれた。この時代のフランスはルイ・フィリップの統治下にあり、徐々に二つの革命(フランス革命)から遠ざかろうとしていた。すなわち「アンシャン・レジウム」の思いでは色濃く、生活信条に於いては18世紀からほとんど変わっていなかったが、工業国としての夜明けを迎えようとしていた時期である。また、芸術界はロマン主義全盛の時代であり、ユゴー43歳、ドラクロア46歳、さらにメンデルスゾーンは「ヴァイオリン協奏曲第2番」を、シューマンは「ピアノ5重奏曲」を書き上げており、ベルリオーズは「ファウストの却罰」を作曲しつつあった。

フォーレは幼い頃から宗教的環境に育ち、9歳の時にパリのニデルメイエール宗教音楽学校に入学した。彼は以降11年間をここに過ごすことになるが、教会音楽家を育てるべく組織されたこの学校でのギリシャ語ラテン語、フランス文学の古典を中心とした一般教育とともに、特にグレゴリオ聖歌についての研究は後のフォーレの音楽形成に重要な影響を与えた。その音楽教育とはニデルメイエールの娘婿にあたるギュスターブ・ルフェーブル(作曲家)が著した和声概諭の中に記されているが、そこでは当時のパリ音楽院(コンセルヴァトワール)で教えられていた独断的で、機械的に扱われる和音の連結に対して、断固として反対の立場がとられた。この教程の中では調に含まれない音変化を用いることによりより調整の概念を拡大するとともに、ダイナミックな観点と和声進行の柔軟性を強調したものであった。容易に行われる転調、頻繁に用いられる旋法性の借用など、彼の音楽の特徴を形成する全ての要素はニデルメイエール宗教音楽学校での教育なしには得られなかったものである。1860年フォーレ15歳の時にサン=サーンスがこの学校に赴任してきた。後年、フォーレが「私は、サン=サーンスに全てを負うている。」と述べているが、この師弟の出会いは、フォーレの人間形成一特に優雅、洗練、節度といったフランス精神の継承に多くの示唆を投げかけている。サン=サーンスは当時古典と宗教曲で占められていたこの学校のカリキュラムに対し正規の時間を延長してリスト、シューマン、ワーグナーなどの音楽を生徒たちに聴かせた。この事はフォーレたちにとって非常に大きな刺激となった。フォーレはサン=サーンスの指導で作曲を始めるようになったのは、先ず歌曲の分野であった。ニデルメイエール宗教音楽学校を卒業した年には「夢のあとに」「水のほとりにて」等の名作を含む歌曲集第1巻が出版された。その後、レンヌのサン・ソルヴェール教会のオルガニストをはじめに幾つかの教会オルガニストを歴任するが、その間多くの歌曲といくつかの宗教作品を残した。1871年には当時創設された国民音楽協会に参加し、ドビッシー、ラヴェルへとつながる近代フランス音楽の発展に大きな役割を果たすことになる。控えめではあるが、しかし精妙な美しさに満ちた彼の作品は次第に世の認めるところとなり、1896年にはマスネーの後任としてパリ音楽院の作曲家教授に迎えられた。その門からはラヴェル、シュミット、エネスコなどの大作曲家が輩出している。1905年に同音楽院の院長となる。1909年にはアカデミー会員に推された。1910年頃より動脈硬化症にともなう聴覚障害が彼を苦しめる様になる。1919年同楽院長を退任。1924年、最後の作品「弦楽四重奏曲」の草稿をまとめて間もなく家族に看取られて息を引き取った。パリ音楽院名誉院長、アカデミー会員、レジオン・ドヌール大十字勲章受勲者であるフォーレの死は、彼の「レクイエム」が演奏される中、マドレーヌ寺院で国葬を以て悼まれた。

この頃のフランスは第一時大戦後、第三共和制の下にあり、強国としての絶頂期を迎えていた。そのころには電灯、レコード、自動車、飛行機などが現れ、キュービズム後の抽象芸術も生み出されていた。カンディンスキー58歳、ピカソ43歳、メシアンは初期の作品を制作中、またシェーンベルクは十二音技法の原理を確立していた。

フォーレの作品はこのような世界の変化の中で、音楽的にも過渡期の様相を見せているが、彼は先ずロマン派の語法を取り入れ、ついで和声に重大な刷新をもたらした。彼は19世紀の音楽家であるとともに、20世紀の古典的存在と言うことが出来るが、その歴史的役割以上に大切な事は、フォーレが古典的な調性や既存の旋法性の範囲にとらわれず純粋に、本能的に独目の語法を確立していったという事で、彼の作品は旋法書法に革新をもたらしたもっとも輝かしい例であり、洗練しつくされた感覚と均整のとれた表現は、フォーレ独特のものであると同時にフランス音楽の一つの理想として、フランス近代音楽の確立に重要な役割を果たしたのである。

フォーレには器楽曲の分野にもバイオリンソナタ-イ長調などの室内楽、多数のピアノ小曲等があるが、彼の本領は微妙なニュアンスをたたえた歌曲にあり、特にヴェルレーヌの詩に曲をつけた「月の光」「優しい歌」などが有名である。

ラシーヌ雅歌と小品

「ラシーヌ雅歌(作品11)」はフォーレがはじめて4声書法を用いて書いたもので、テキストはフランスの文学史上大きな足跡を残したジャン・ラシーヌの晩年の詩篇が用いられている。新約聖書のヨハネによる福音書の冒頭「はじめに言葉があった。言葉は神とともにあった。...」という語句にもとづいた神韻縹渺とした。この詩への作曲にフォーレは既に簡素な構成の中で、洗練、均整といった彼の音楽の特徴を持った美しい音を与えている。低声部から高声部に向かって次々に導入されていく声部構成の展開は、彼の合唱作品の第一歩を飾る多声部書式の典型といえる。

今回演奏する「タントゥム・エルゴ」「アヴェ・マリア」「汝はペテロ」などの小品は、いずれも彼の不朽の名作である「レクイエム」の前後で作曲されている。いずれの作品も小品ながらまさにフォーレ独自の世界を持っており、控えめではあるが精妙な美しさに満ち、聴く者を気品ある幻想の世界へ導いてくれる。「タントゥム・エルゴ」のテキストにフォーレは3つの作品を残している。本来、3部の女声合唱と独唱用にかかれた作品65-2は1894年の作品で、これら3曲の中でも最も魅カ的な作品となっている。作品55は1890年頃の作品で、テノール独唱と5声の混声合唱の為にかかれているが、今回はソプラノ独唱で演奏する。いずれの作品も淡々とした曲の流れと清楚な響きのなかで深い信仰の言葉が歌われている。「アヴェ・マリア」についても4つの作品が知られている。はじめの作品93は女声合唱の為のもので1877年に作曲されたものが1906年に改作されたもの。次は3部の男声合唱用のもので1871年の作品、クール・スー・ローザンヌに疎開していた古典宗教音楽学校の生徒たちのために作曲された。gratia plena や、Sancta Maria のフレーズの音の広がりが天界を意図しているようで美しい。「汝はペテロ」はバリトン独唱と混声合唱の為の作品で1872年頃のもの、フォーレの作品には珍しい豪快な作風である。サン・シュルピス教会では神学生がこの曲を歌いだしたとたん会堂全体が揺れるように鳴り響いたという。フォーレ自身はあまり好みではなかったため気にかけなかったようだが、この作品は人気があり多くの教会で演奏された。

レクイエム 作品48

フォーレはそれほど多くの宗教音楽を作曲した訳ではないが、唯一無二の偉大な仕事のため宗教音楽家としての印象が強烈となっている。その仕事こそ「レクイエム」の作曲である。フォーレが「レクイエム」の構想に着手したのは1885年の父親の死をきっかけとしている。さらに1877年に相次いで母親の死を迎えたことで作曲は比較的短期間に進められた。このため「レクイエム」の原型は1877年に出来上がっており、作品は最終的な形をとるに先だって1888年にパリのマドレーヌ教会で「Introit & Kyrie」「Sanctus」「Pie Jesus」「Agnus Dei」「In Paradisum」がフォーレ自身の指揮で初演されている。1887年に既に書かれていた「Libera me」と1889年に書かれた「Offertoire」を含む全7楽章の形で演奏されたのは1893年で、国民音楽協会の演奏会としてサン・ジルヴェーズ教会で再演された時のことである。

楽器編成は、初演の際の小規模な編成に加え多少の変更を加えた程度にとどまる。この楽譜はしばらくの間出版されなかったがこれが大きな誤解の始まりであった。1988年、J.Rutterの校訂によりオックスフォード大学出版局よりようやく出版された(本日はこのRutter版に基いて演奏を行います。)が、それまでの間に大規模な管弦楽を伴ったレクイエムが一般的になってしまったのである。初演の際の楽器編成はバイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、ハープ、オルガン、2本のバスーン、及び4本のホルンのみの実は小さな編成であった。

現在一般に演奏されている大規模な管弦楽による「レクイエム」は1900年にパリの万国博覧会の際に、トロカデロ宮に於いて、タッファネルの指揮によって演奏されたもので、ピアノ伴奏譜をフォーレの愛弟子ロジェ・デュッカスにより加えられ、Hamelle社から先に出版されており現在の定番となっているものであるが、その編成がフォーレの意志によるものとは考えにくい。

「Introit & Kyrie」(四部合唱)では、死者の永遠の安息を祈り、主とキリストに憐れみを求める。管弦楽の重々しいD音に導かれて、合唱が“Requiem aeternam”と歌い出し、やがて弦を対位としてテノールが古雅な表情で祈る。それをソプラノがリディア調の旋法を受け継ぎ、最後に再び「主よ憐れみたまえ」と歌う。

「Offertoire」(バリトン独唱と四部合唱)は、神に犠牲を捧げ、死者の罪と地獄から抜けられるように祈る。先ず、弦とオルガン部にカノン風の導入部が奏され、それが沈黙したところでアルトとテノールが3度平行のカノンでアカペラの美しい旋律を歌い、やがて、高音弦とバス合唱もこれに加わる。中間部はバリトン独唱によるほとんど朗読風の「ホスティアス」で、最後にソプラノも加わって、最初の部分が再現される。

「Sanctus」(四部合唱)全曲の中でもとりわけ美しい楽章であり、心の底までも洗い清められる様な感動を秘めている。オルガンの保持音とハープ、ヴィオラの分散和音に始まり、ソプラノ合唱と男声合唱が互いにユニゾンで交唱風に同じ旋律を歌っていく。弦楽器の対旋律がそれに美しく絡み合っている。

「Pie Jesus」(ソプラノ)主イエスに死者の安息を祈る。変口短調、アダージョでソプラノソロが慎ましく歌う。オルガン伴奏も、やがて加わる弦楽器もごく簡素で単純であり、古雅で枯淡な表情と、それでいながら心にしみる敬虔さを失っていない。

「Agnus Dei」(四部合唱)神の子羊たるイエス=キリストに捧げる祈り。弦とオルガンの前奏に続いてテノールが限りない憧憬に溝ちた旋律を歌い、弦がこれの対位を奏する。四部合唱による叫びの後、再びテノールの旋律が再起した後、突然ソプラノがC音で“lux”と歌い出し、そのCを軸にしてこれまでのハ長調が変イ長調に転調する手法は見事としかいいようがない。薄暗い世界に一条の光が差し込んで救いに導いてくれる。四部合唱の感動にあふれた斉唱の後、第一楽章冒頭部分が繰り返される。

「Libera me」(バリトン独唱と四部合唱)死者の罪の許しを祈願する。低音弦とオルガンの刻むピッツィカートとスタッカートのリズムに乗って、バリトンが清純な旋律を歌う。次にレガートに変わって合唱が「Dies Irae」とこれを受け継ぐ。この時ホルンがアタッカで奏するA音によって、四部合唱がほとんどユニゾンで、最後の審判の情景を歌うが、これは「怒りの日」の再現とはいってもヴェルディのそれのような劇的な表出ではなく、祈る者の心の中に確信をもって回想される内省的な性格の音楽である。それは長くは続かず、やがて冒頭のリズムに乗って、四部合唱が敬虔なユニゾンで「LIBERA ME」のテーマを歌うが、これはすばらしく感動的な場面である。最後にもう一度バリトンと合唱がこれを確認する。

「In Paradisum」(四部合唱)「天国にて」を意昧するこの楽章は、死者の柩が墓地に運ばれる途中で歌われるものである。これまでの二短調を主とする暗い性格に対して、ここではニ長調が用いられており、死者の安息を確認する作曲者の信仰が強調されている。オルガンの奏するスタッカートの分散和音は、静かに響く鐘の音を暗示しており、ソプラノが深い感動にあふれた透明な旋律を歌い続ける。アルトと男声合唱は一部で「イェルサレム!」と復唱するだけで、専らソプラノの清純な響きが見事こ活用されている。後半はハープも加わり、合唱が永遠の安息を祈る中で曲を閉じる。

解説:馬岡利吏:会員

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