Yokohama Choral Society
-横浜合唱協会-

横浜合唱協会第45回定期演奏会曲目解説

曲目解説

ヤン・ディスマス・ゼレンカ
 (Jan Dismas Zelenka)[1679〜1745]

決して恵まれたとは言えない66年の生涯を終えたヤン・ディスマス・ゼレンカ。しかし、その才能は、かのJ.S.バッハも評価していたように、特に対位法の名手としてたぐいまれなるものであった。ボヘミア地方のラウノヴィチュという村の教会の洗礼簿に彼の受洗が記録されているものの、その後の少年時代の資料は皆無であり、再び情報が得られるのは1704年、即ち25歳の時である。彼は当時プラハにあったイエズス会の学校のために作曲をしており、この事は既に作曲活動に従事していたという事実を示すだけでなく、かつては彼自身もこの学校に在籍していたことをも想像させるものである。そして1709年に一つの好機が訪れた。それまでの活動の場であったプラハから、当時一大中心地として栄えていたドレスデンの宮廷楽団のコントラバス奏者として召し抱えられた。残念ながら当時ハプスブルグ家の支配下にあったプラハには活躍できる場が少なかったため、ゼレンカに限らず多くの優秀な音楽家が異郷の地で活躍せざるを得ない状況にあったことも確かである。ザクセン選帝候フリードリッヒ・アウグスト1世は彼の才能をある程度評価していたのか、ウィーンヘ赴かせ、宮廷楽長で多声音楽と通奏低音の大家であったJ.J.フックスのもとで学ばせることになり、ここでゼレンカはポリフォニーその他の作曲技法を習得した。そして1716年にはフックスの推薦もあり、王の命を受けイタリアヘ留学することになった。イタリアのヴェネツィアではアントニオ・ロッティに師事し、ナポリではアレッサンドロ・スカルラッティとも会う等収穫も多く、1719年に著名な作曲家となってドレスデンに戻ってきたのである。

こうした経験は彼の大きな財産となり、その後の活動に弾みをつけ立場を強くしたこともうなすける。1721年には宮廷楽団の副楽長となり、さらに1723年には王の楽団の一員としてプラハに行く機会があり、ここでは彼の管弦楽を中心とした作品が並べられた。しかしこうした活躍の一方で、負わされた責務に見合わない低い報酬、一向に改善されそうにない待遇、そして1724年2月の父の死など不遇に見舞われていた。それでも、当時宮廷楽長の座にありながら病気がちであったJ.D.ハイニヒェンの代理を最も重要な任務として課せられ、1729年にハイニヒェンが亡くなった後も「宮廷楽長の座」が空席のまま1734年までの5年間宮廷楽団の指導に当たり、事実上の楽長の役割を果たしたのである。しかし、こうした努力も報われることはなかった。

1733年に亡くなったアウグスト1世の後を継いだ若きアウグスト2世は、新しい宮廷楽長を任命したが、それはゼレンカではなく20歳も年下のヨハン・アドルフ・ハッセであった。イタリアに学んだハッセの作風はナポリ派の様式を示し、吉典派に通じるあくまで軽快で優美な旋律を特徴としており、ライプツィヒにおけるJ.S.バッハと同様、ゼレンカがドレスデンに持ち込んだ対位法を駆使したバロックの荘厳さと厳格さに取って代わりつつあった。若き王の選択はそうした時代の流れをとらえたものとも考えられるが、実のところはハッセの妻で当時最も評判の高かったソプラノ歌手ファウスティーナの任用を切に望んでいたところが大きかったとの事情もある。いずれにせよゼレンカがひどい屈辱を味わったことは確かで、その後1735年に「教会作曲家」の称号を授与されるものの、形骸化していたこの称号は彼に対する待遇や報酬の改善にはほとんど効力を持たなかった。この後作品数は減るものの、1736年から1741年にかけて作曲した五つのミサ曲は彼の能力が最大限に発揮された作品と言っても過言ではない。これらの作品には新しい時代の流れを掴んだ効果的な書法も盛り込まれてはいるものの、彼の音楽表現は基本的には変化しておらずバロックの対位法書式が十分に示されたものとなっている。ただこれらの作品はゼレンカの名とともに、もはや一般の注意を引くことはなかった。そして彼は、この後の数年間は数曲の作品を残すに留まり、1745年12月23日の夜亡くなり、クリスマスの日に埋葬されたのである。

ミサ・ヴォティヴァ
 (MlSSAVOTlVA)ZWV18[1739]

この作品は晩年の1739年に作曲された。ゼレンカはこの時期深刻な病に侵されていたが、神の援助により再び健康を取り戻すことができ、神への感謝の気持ちを託したのである。今日知られている170曲余りの宗教声楽作品のうち「ミサ曲」は断片を含めて20数曲であるが、この曲を含めて1736年から1741年に書かれた五つのミサ曲一“Missa Sanctissime Trinitatis”(ZWV17)、“Missa Votiva”(ZWV18)、“Missa Dei Patris”(ZWV19)、“Missa Dei Filii”(ZWV20)、“Missa Omnium Sanctorum”(ZWV21)一これらこそがゼレンカのミサ曲の集大成というべきものなのである。それまでの作品に比し長大化しているのも特徴の一つであるが、これは宮廷に仕え、典礼上の使用のためにミサ曲を義務として書いていた身でありながら、そうした外的束縛から解放されたかのように、或いは余命幾ばくもないことを悟ったかのように、典礼上の使用には長すぎる程の曲となっており、ゼレンカ個人としての「神への捧げもの」とも思えるのである。またこれらは当然のことながらすべて<キリエ Kyrie>に始まり<ドナ ノービス パーチェム Dona nobis pacem>で終わるいわゆるミサ典礼文を素材として作曲されたが、それぞれに趣を異にした仕上りとなっており、特にZWV19,20,21の3曲をわずか二年の間に書き上げたことは、彼の非凡な才能の証でもある。

この「最後の最高のミサ曲」の中の一つとも言える「ミサ・ヴォティヴァ」の<Kyrie>は、《Kyrie eleison 1》において協奏曲形式の合唱で始まる。ここでの特徴は半音階の下降進行にあり、冒頭でユニゾンによる管楽器に表れた後、バス声部のみならず高声部にも表れる。使われている調性e−mollについて、ドイツの作曲家・音楽理論家でバッハの作品にも言及したヨハン・マッテゾンは「如何にして扱おうとも決して快活な情緒は見いだせず、もの悲しさ、物思いに沈むさま、悲嘆にくれる様子を帯びている。」と述べている。次のソプラノ独唱《Christe eleison》は、1731年にドレスデンにやってきたハッセがもたらした“モダン”なイタリアオペラそのものである。この外向的な楽章の後、第4曲の導入部となる12小節の《Kyrie eleison 2》、そして第1曲を部分的に再現した《Kyrie eleison 3》へと続く。<Gloria>は<Credo>と共にこの曲の中心を成すものであり、またこの楽章は神と子と聖霊のいわゆる三位一体を示す神への讃美を唱いあげる部分である。《Gloria in excelsis Deo》では管弦楽のユニゾンのオクターヴ跳躍を伴いながら速いテンポで始まり、二重唱で典礼文の冒頭を先唱した後、合唱によってもう一度唱われる。この繰り返しが3度成され、次の“Laudamus te”以降も主を讃えんと高音域での合唱が続く。楽章を分かち《Gratias agimus tibi》ではこの言葉がより強調された形をとりながら進行していく。これは冒頭にも述べたように他ならぬゼレンカ自身の、病気を克服することができたことに対する神への「感謝」そのものなのである。ソプラノのアリア《Qui tollis》は前曲とは対照的にゆっくりとしたテンポであるが、これはテキスト内容の憐れみや願いを表す調性(c−moll)とともに十分に理解できる。これに対し次の《Qui sedes》では確信を得たようなしっかりとした合唱で始まるが“miserere nobis”ではまた願いの情調が表れる。そしてこの短い序章とも言える楽章の後、次の《Quoniam tu solus Sanctus》ではバスのアリアによって勝ち誇ったかのように高らかに唱いあげられる。<Gloria>の最後を飾るのは紛れもなく《Cum Sancto Spiritu》であり、ゼレンカはここでも2楽章に分け、導入部ともいうべき曲を準備し、これをホモフォニックに唱った後、今度は全体をフーガで埋め尽くすと共にシンコペーションを効果的に利用し旋律に変化をつけている。

《Credo in unum Deum》に入ると、司祭による歌い出しの部分“Credo in unum Deum”の言葉をソプラノからバスの順に合唱で唱いながら信仰告白をしていく。この後ユニゾンで唱いあげ、ゼレンカ自らの信仰告白をより強固なものにしているようにも取れる。《Et incarnatus est》では冒頭からアルトの独唱で唱われるが、ここに出てくる旋律は次の十字架の表象で埋め尽くされた《Crucifixus》の主題(十字架音型の譜例:注1 両端の音符及び中間の音符を結んだ線が、横になった十字架を示す)の派生型であり、この二つの楽章もまた対になっているとも考えられる。《Et resurrexit》になると復活を意識した活気ある音楽に変わり、合間にソプラノ、テノール、バスのソロを伴いながら進行していく。そしてこの楽章の最後は歯切れのよい快活なフーガで締めくくられる。《Sanctus》は短い楽章ながらテンポの変化が著しく、また途中の“Gloria tua”ではこれまでにない高音で讃美が捧げられている。次の《Benedictus》は荘重なソプラノのアリアとなっているが、ここでもアーティキュレーションの過剰な指示がハッセの作風の影響を受けている。再び唱われる《0sanna》は伝統から、またゼレンカ目身の他の曲もそうであるように、フーガの形を取っている。《Agnus Dei》は40小節の中で[合唱一ソロの三重唱一合唱]というA−B−A'の形で唱われる。この曲の最後を飾る《Dona nobis pacem》はその音楽的描写が《Kyrieeleison1》と全く同じである。これはオペラにむけるダ・カーポ・アリアの影響によると言われているが、確かにゼレンカの後期のミサ曲はこの曲も含めてオペラに負うところが大きい。しかし、このことで単に“オペラ的な教会音楽”と性格づけることは間違いであろう。なぜなら曲作りの上で細部にわたって表現する方法を学ぶのは、当時オペラによるものが大きかったからである。

注1:

(会員:大石康夫)

ゼレンカに関するホームページ(Thor氏による)

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