Yokohama Choral Society
-横浜合唱協会-

横浜合唱協会第47回定期演奏会曲目解説

曲目解説

クラウディオ・モンテヴェルディ(1567-1643)
 「主にむかいて新しき歌をうたえ」
 「無伴奏合唱のための四声のミサ」

音楽史の転換期には、いつの時代も優れた作曲家が現れ、新しい時代をリードしていこうとするものであるが、クラウディオ・モンテヴェルディの様な、古い時代の最後を飾る大作曲家であると同時に、新しい時代の先頭に立つ巨匠でもあるという天才は、他に例を見ない。彼には大きく三つの姿が伺える。すなわち、ルネッサンス後期のマドリガル作曲家、初期バロックの初めてのオペラ作曲家、そしてパレストリーナのstile antico(古様式)と、ジョヴァンニ・ガブリエリのstile nuovo(新様式)の狭間で両方を尊重しなければならなかった教会音楽家の姿である。

モンテヴェルディは、後にヴァイオリン製作(ストラディヴァリなど)で有名になるクレモナに生まれ、マントヴァ宮廷楽長を経て、46才の時ヴェネツィアのサン・マルコ聖堂楽長となった。サン・マルコ聖堂楽長として彼に期待されたのは、まず楽団の歌手、器楽奏者の補強、そして教会での種々の典礼のための作品を書くことであった。

ところで、マドリガーレとオペラに於いて、モンテヴェルディは時代とともに歩み、この分野では連続的な発展が認められるが、宗教的については一様に様式上の矛盾を持っている。すなわち、一方でパレストリーナ風のア・カペラによるポリフォニーの伝統的なスタイルを受け継ぎ(「第一の作法」:Primaprattica)、他方では、歌詞の内容の劇的な表出のために不協和音や半音階進行の大胆な使用もためらわない、通奏低音付きの技巧的な歌唱によるスタイル(「第二の作法」:Seconda prattica)の適用が見られる。サン・マルコ聖堂での宗教音楽の創作にあたっては、この両方を使い分け、曲によっては両者を混在させるという職人芸を披露していった。

ヴェネツィアでのモンテヴェルディは、聖堂の楽長として多忙を極め、作品も相当数にのぼった。1641年にヴェネツィア時代の宗教作品集「倫理的・宗教的な森」を出版。「ウリッセ(ユリシーズ)の帰郷」、「ポッペアの戴冠」をオペラ化し、1643年11月に76年の生涯を閉じた。彼の死後、1641年の曲集に収まらなかった宗教曲を集めた「四声のミサと詩編曲集」と、世俗曲の分野で「マドリガーレ集第9巻」が、1651年に出版された。しかし、彼が生涯に作曲したおびただしい数の教会音楽の殆どは残念ながら消失し、「六声のミサと聖母マリアの夕ベの祈り」(1610)、「四つのモテット」(1620)、「倫理的・宗教的な森」(1641)と「四声のミサと詩編曲集」(1651)など、僅かの曲集のみが後世に残された。

本日のプログラムの「Cantate Domino canticum novum (主にむかいて新しき歌をうたえ)」は、1620年にマントヴァ時代の同僚J.C.ピアンキによって出版された曲集へ寄稿されたものの一つで、素晴らしく陽気で、アクセントの強い三拍子と、よく練り上げられたマドリガーレ風の楽句を持っている。また、G.ガブリエリの影響も伺える。

「無伴奏合唱のための四声のミサ」は、モンテヴェルディの死後、1651年にヴィンチェンティにより編集、出版された曲集に含まれていて、意識的に古風に作られている。「Kyrie」、「Sanctus」、「Agnus Dei」は典型的な「第一の作法」(パレストリーナ風の「通模倣様式」)で書かれているが、「Gloria」、「Credo」には「第二の作法」が広く適用されているのが特徴である。「Crucifixus...」は「Passus et sepultus est」という言葉を表現するために掛留音を非常に美しく利用しており、三拍子の「Et resurrexit」や、反復進行的な「Hosanna」には真の昂揚が見られる。

フーゴ・ヴォルフ(1860-1903)
 「アイヒェンドルフの詩による六つの賛美歌」

「なんて素敵な音を書く作曲家なのだろうか...」私にとってフーゴ・ヴォルフの作品との出会いはこんな驚きを伴っていた。フーゴ・ヴォルフは、シューベルト、シューマンのあとを継いでドイツ・ロマン派リートを頂点に導いたオーストリアの作曲家である。希有な天才ヴォルフは、躁鬱体質と梅毒が原因の進行性の脳麻痺、激しい気性とに支配されながら、42歳の短い生涯を駆け抜けた。そして、これらによる狂気の狭間から「メリーケ歌曲集」「ゲーテ歌曲集」「イタリア歌曲集」など7巻の歌曲集を含む300曲近い歌曲と、交響詩「ペンテジレーア」などの傑作が生まれた。彼の作曲の原点はワーグナーで、作曲技法上も影響を色濃く受けており、作風は、ライトモティーフ、半音階的進行、無限旋律、自由な朗唱法、絶え間ない転調などの技法が駆使され、歌詞の内容、人物の心理描写に深く迫っている。

彼ほど詩の言葉に敏感で、適切な音でこれほど言葉一つ一つに輝きを与える作曲家は他に見あたらない。彼を知る詩人、ヘルマン・バールの言葉を借りると、「私たち言葉の芸術に携わる者の大部分は、現在の音楽に接して途方に暮れているということ。好きな詩の曲を聴くことがあると、その音楽が私たちを『しりごみさせる』気がする。曲が愛する詩と疎遠なのだ。...フーゴ・ヴォルフは詩を私たちから遠ざけない唯一の人である。彼の音楽を、私たちは詩の本来の性質であると、詩行の中にあるものそのものだと、詩に付属している空気、それ無しには全く生きることの出来ない自然の空気であると、感じる。」また、同時代の作曲家マックス・レーガーによると「今日ひどく流行の、たいていは効果を発揮するおぼろな情調に溺れたりしない。多かれ少なかれ惨めったらしい陳腐で無駄なフレーズ作りを一切せず、この素晴らしい音の詩はぴたりぴたりと鳴り過ぎて行く。(交響詩ペンテジレーアに寄せて)」
 (H.バール、M.レーガーの言葉は、アンドレアス・ドルジェル著/樋口大介訳「ヴォルフ」音楽の友社より引用)

「アイヒェンドルフの詩による六つの賛美歌」は1881年に書かれた。ヴォルフは、この六つの歌曲をツィクルスとしてひとまとめにした。詩の内容と配列順序は互いに対照をなして引き立てあっている。プレリュード(「ひらめき」とポストプレリュード「心の高まり」)が四つの信仰告白(「調和」、「忍従」、「最後の願い」、「信徒」)を縁取っている。その告白のうち、最後の「信徒」が感動的である。「主よ、御心の行われんことを。暗闇に包まれ地上は沈黙します。...おお、我ら罪人をあわれみて裁きの庭へつかわしめよ。われ、深きがうえにも悲しみの内にて塵の中に顔をうずめん。」

彼の葬儀では、ウィーン・ア・カペラ合唱団により、この「信徒」が奉納教会の神秘的な暗闇の中で歌われた。

この作品は、「賛美歌」という邦題がつけられているが、これについては多少異論がある。実際、彼は洗礼を受けていないし、二一チェ(「神は死んだ」で知られ、無神論の立場を通した哲学者)に傾倒し、教会とも距離をおいていた。また、作曲の年に彼は最愛の女性ヴァリ・フランクから一方的に絶縁されており、作品はこの失望の淵から生まれたとされている。そして、選ばれたテキストも、神とヴァリ・フランクが重ねられているような部分も多い。本当は「賛美歌」とは言えないのかもしれない。

しかし、やはりこの作品はヴォルフ自身の信仰告白に他ならない。そこには、人間ヴォルフの感情と宗教観が、アイヒェンドルフの詩に託され、言葉に添えられた音によって見事に表現されている。

フランク・マルタン(1890-1974)
 「無伴奏二重合唱のためのミサ曲」

フランク・マルタンはW・ブルクハルト、A・オネゲルらとともにスイス作曲界の華やかな一時代を築いた作曲家である。彼は1890年にジュネーブで、熱心なカルバン派牧師の家に生まれた。大学では初めに数学と物理を専攻、途中で音楽に転向した。マルタンは教育にも熱心で、1928年から1938年までジュネーブのエミール・ジャック・ダクロ一ズの研究所で講師をし、新しい形で音楽とリズム教育を実践した。晩年は、ケルン音楽大学などでも作曲を教えた。1974年にオランダ、ナールデンで逝去。

マルタンはシェーンベルグが生み出した十二音技法に熱心に取り組み、その感性は、十二音技法の旋律に繊細に溶け込んでいった。しかし、「十二音技法を部分的に使う事が、従来の慣習と完成された形式の束縛から私を救い出してくれた。シェーンベルクの学校で私がついていけなかったのは無調音楽の分野で、それには私の音楽感性のすべてが抵抗していた。」と語るマルタンは、オラトリオ「魔法の酒」などの作品において、調性感を放棄することなく彼独自の様式を確立していった。1938年頃から十二音技法を用いた作品が多くなるが、そこには古典的三和音と十二音の旋律が同居し、他に見られない世界が作られている。

マルタンの人生後半に作曲された礼拝のための作品群は、マルタンの深い信仰心を示しており、その筆頭が「無伴奏二重合唱のためのミサ曲」である。このミサ曲は1921年から途中大きく中断しながら1929年までかかって完成された。

彼のミサ曲には、伝統的な単旋律の曲(グレゴリオ聖歌など)の影響が随所に見られる。「Kyrie」の冒頭部分の動きなどもその典型で、自由に流れるメロディは、時折、アンティフォナ(交唱)のごとく交わされ、声部が重なりあうにつれて鮮烈な感覚の中に憐れみの嘆願の渦を形作る。また、一つ一つのテキストには独特な性格付けがなされ、言葉により音楽が敏感に変化している。「Gloria」の冒頭では、静かに威厳に満ちた中で声部が積み重ねられていく。その後、次々に変化するリズムを伴って、一気にミサの言葉が歌い上げられる。「Credo」の中の「et incarnatus est ...」の部分の音楽は、マルタンにとっても信仰告白そのものである。特にこの楽章では、言葉の持つ色彩の扱いが微妙でおもしろい。素晴らしく輝かしい「lumende lumine」や、象徴的に歌われる「Crucifixus」の厳しさと感動、全く熱狂的に復活を喜ぶ「Et resurrexit」など、テキストの意味が雄弁に表現されている。「Sanctus」「Benedicutus」は、ともに控えめな表現になっている反面、マルタン個人の強い信仰心が感じられる。「Agnus Dei」は、何とも個性的で、二つの合唱は全く異なったキャラクターで配置される。第二コーラスが淡々と厳しくリズムと和音を刻み、第一コーラスがそれと対比するようにグレゴリオ聖歌のような旋律を歌う。ここでは、淡々とした中に、人間の内面に向けた強い祈りが歌われる。最後の四小節は感動的。分かれていた二つの合唱が一つになって「Dona nobis pacem」と祈るが、ここで初めて純粋にG-durの明るい和音が現れ曲全体を閉じる。たった四小節の「Dona nobis pacem」であるが、この四小節のために前の全ての音楽が用意されていたと感じられる瞬間である。

マルタンは、このア・カペラ作品を作曲するにあたり、わずかな手法しか使用しなかった。それは、ミサのテキストそのものが完成された芸術作品であるからで、テキストの持つ力を表現するのにマルタンはなんの手法も用いることができなかったのである。

「今日、一般的に宗教的合意が存在しない状況では、宗教曲を創作しようとする芸術家は、真の共感を聴衆との間に得ようとしてもそれが不可能であるという事を認識させられる。その作品を聴衆はそれぞれの観点で捉えるであろうし、作者と同じ宗教観を持つ人でさえその形式と意味についての本当の関係を見つけることはできないであろう。」宗教観という点ではマルタンは極端な個人主義者であった。彼が、完成した作品を14年もの間公表しなかった理由はそこにある。「それは神と私だけの問題で、他の人には何の関係もないことなのだ。」

(会員:馬岡利吏)

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