Yokohama Choral Society
-横浜合唱協会-

横浜合唱協会第55回定期演奏会曲目解説

【ア・カペラ合唱曲について】

今回はハスラーからブルックナーまで6人の作曲家を取り上げましたが、そこには300年以上の歴史が流れています。ハスラーからバッハまでの「バロック」、メンデルスゾーンとブルックナーの「ロマン派」と、この間、音楽は各時代それぞれの様式があり、一見つながりがないようにも思われますが、作曲家が歩んだ道を辿ることによって、その根底に時代を超えた1つの流れが見えてきます。

ハスラー、プレトリウス、シュッツはバロックの花を開かせたイタリア、とりわけヴェネツィアの音楽をドイツ・プロテスタント教会音楽にもたらし、根づかせました。

南ドイツ・ニュルンベルクの音楽一家に生まれたハスラーは、イタリアで修行を積んだドイツ作曲家の先駆けとして、1584〜85年にヴェネツィアでA.ガブリエリ(1510頃-86)に学び、1601年には故郷で最高音楽家として活躍、さらに1608年以降ドレスデンのザクセン選帝侯宮廷オルガニストに就任しました。バッハもここの宮廷作曲家の称号を、『ロ短調ミサ曲』のキリエ・グロリア部の献呈によって1736年に得ています。そして興味を引くのが、ハスラーとバッハが有名な受難コラールでつながっているということです。バッハの『マタイ受難曲』で唱われるパウル・ゲルハルト(1607-76)による受難コラール『おお、血と傷にまみれた御頭よ O Haupt voll Blut und Wunden』は、もとを辿ればハスラーの世俗歌曲『わが心は千々に乱れ Mein Gem_t ist mir verwirret』であり、これが『心より我は潔き死を望む』という死の歌に変わり、そして後にこの受難コラールに結びつけられたのです。

 プレトリウスはルターやメランヒトンに教えを受けた神学者を父にもつ、17世紀初頭ドイツにおける最も優れたプロテスタント音楽作曲家にして、音楽大全(シンタグマ・ムジクム)を著した理論家です。彼もG.ガブリエリやプラハでも活躍していたハスラーの音楽から、通奏低音付の協奏風作曲様式や色彩豊かな複合唱様式を学び、その後ドレスデンではシュッツとも親交を結んでいます。

シュッツもG.ガブリエリに学んだことはよく知られていることですが、その複合唱様式は弟子のCh.ベルンハルトを経て、D.ブクステフーデに受け継がれました。さらにブクステフーデの音楽は、リューベックを訪ねた青年バッハにも影響を与えることになります。

 バッハの音楽は、対位法を駆使した荘厳で華麗な響きに仕立て上げられており「バロック時代を象徴するもの」と言えますが、これはバッハがそれまでに体験した様々な音楽によって成り立っています。この「バロック音楽」はバッハの後年には終焉を迎えますが、これら3人との関係に示されるようなつながりが他にもいくつか挙げられ、「全ての音楽がバッハに向かって流れ込んだ」と評されることになりました。

この後「ロマン派」までの約70年の「古典派」時代には、ア・カペラ曲が極端に少ないように思われます。それはこの時代が啓蒙主義の到来によってそれまでの秩序を壊し、人間の尊厳や自由について新たな概念が生み出されたことで、音楽においてもその中心が「教会」という場所から、少しずつ「ホール」や「室内」等世俗的な場所へと移り、交響曲やオペラあるいは室内楽曲に重きが移ったことが考えられます。

しかし19世紀に入ると、もう一度教会音楽を問い直す動きが起こり、その中でパレストリーナ様式への関心やバッハ復活の動きの中で、「ロマン派」の「ア・カペラ」曲が誕生することになります。「ア・カペラ」の解釈は時代によって異なっており、「バロック時代」までは通奏低音を付けたり、場合によっては声部毎にそれに似合った楽器を同じ音で演奏することも含まれましたが、「ロマン派」ではそれまでとは別の、今日言う「無伴奏」の意味を持ったものを指します。楽器というのはどこか世俗的であり、それを排除して、より純粋な様式を望んだのです。

メンデルスゾーンは10歳の時にベルリンのジングアカデミーに入団し、そこでバッハ音楽の崇拝者C.F.ツェルター(1758-1832)に対位法を学ぶ一方で、演奏者としてバッハやヘンデル、モーツァルト或いはイタリアのパレストリーナ、ロッティ、ペルゴレージなどの作品に接する機会を得、ローマ楽派の厳格な教会様式の声楽書法、ヴェネツィア楽派の多重合唱による音の豊麗さ、そしてナポリ楽派の理想的な旋律の美しさに魅了されました。また彼は祖母からバッハの『マタイ受難曲』の筆写譜を送られ、ツェルターからバッハの偉大さを学んだことが、『マタイ受難曲』の蘇演(1829)に結び付き、「バッハ復活」の基盤にもなったのです。

ブルックナーはバッハと同じく若くして父を失い、リンツの聖フローリアン聖歌隊で寄宿生活を送り、教会音楽の中で成長しました。やがてウィーンで最も優れた対位法教師から、バッハの『フーガの技法』や『平均律クラヴィーア曲集』等を学んでいます。また、オルガニストとしてバッハのオルガン曲演奏や、編曲なども行っています。さらに『ミサ曲ホ短調』(1866/82)ではかつてのヴェネツィア楽派の二重合唱様式の採用や、合唱主題のパレストリーナからの借用が見られます。

こうしてバッハに流れ込んだバロック及びバッハの音楽は、19世紀における復活を経て、我々の時代へと拡がりを見せています。

ミヒャエル・プレトリウス
(1571-1621)

『高らかに歓喜の声で』 (SATB)

クリスマス用に作曲されたもので、今日でもこのシーズンになるとよく耳にするメロディです。歌詞は第1節から第3節まであり、女声二部で始まり、女声三部、混声四部と続きます。

ハインリヒ・シュッツ
(1585-1672)

『ドイツ語マニフィカート』SWV494 (二重合唱 SATB/SATB)

通常はラテン語で唱われることの多い『マニフィカート』のドイツ語版です。この曲はシュッツが亡くなる前年に当たる1671年に完成したもので、幾つかの資料からシュッツ自身に由来するという『白鳥の歌』の愛称で知られる曲集(遺作)の最後を飾るものです。歌詞の内容から3拍子を中心に、明るい喜びをにじませながら進む力強さを生み出した86歳の生命力に感嘆せずにはいられません。

ハンス・レオ・ハスラー
(1564-1612)

『おお人よ、汝の大いなる罪を嘆け』 (SATB)

この曲名で思い出されるのが、1736年に完成したバッハの『マタイ受難曲』(後期稿)の第1部を締めくくる曲です。これはゼーバルト・ハイデンによる1525年成立の受難コラールと呼ばれる、キリストの受難の出来事全体を歌い上げた中の第1節です。ハスラーは1607年にこの曲を4声ポリフォニーの全体にしっとりとした作りで仕上げています。

ヨハン・セバスティアン・バッハ
(1685-1750)

『畏れるなかれ、私は汝とともにいます』BWV228 (二重合唱 SATB/SATB)

バッハの自筆譜もなく、成立年代や演奏機会が不明のままとなっていますが、一般には1726年2月4日に行われたライプツィヒ市参事会員ヴィンクラーの未亡人、ズザンナ・ゾフィアの追悼式で演奏されたとの説が有力視されています。二重合唱ですが、冒頭で神の声に見立てたバスがユニゾンでテーマを唱い上げ、その後も要所でバスによって神の声が告げられます。後半は4声で、ソプラノのコラール定旋律に他声部が動きの速いパッセージを含みながら絡んでいきますが、この様式はバッハが移り住んだチューリンゲン地方の伝統を色濃く残しています。

『主に向かいて新しき歌をうたえ』BWV225 (二重合唱 SATB/SATB)

タイトルから新年、誕生日祝賀あるいは葬儀用とも取れますが、こちらはバッハの自筆譜は現存するものの、演奏機会は不明です。1789年にモーツァルトがライプツィヒに立ち寄った時、この曲を耳にしてたいへん感動したことは有名です。この曲も二重合唱ですが、こちらは3部からなっています。第1部は「歌え singet」という言葉を強調しながら緻密な8声のポリフォニーが展開されます。「アリア」と題された第2部はしっとりとした対話形式で構成されています。第3部は力強い8声体のフーガで始まり、後半は4声で3拍子の「ハレルヤ」となり、高揚しながら進んで曲を閉じます。

フェリックス・メンデルスゾーン
(1809-1847)

『主のしもべらよ、主を賛美せよ』Op.39-2 (SⅠ/SⅡ/A)

1837年にドイツのコブレンツで作曲された、オルガン付き女声3声部の曲です。神の御名を讃美する歌詞になっており、第1部は合唱で壮麗な趣を持って終結し、第2部は三重唱と合唱の組合せによる対話形式で進みます。

『深き淵より、主よ、あなたに呼びかける』Op.23-1 (SOLO&SATB)

有名なマルティン・ルター作のコラールに基づく作品です。まず単純4声コラールで唱った後、2つのテーマでフーガが鳴りだし、各テーマに歌詞を替えながら進んでいきます。ソロによる第2節が終わった後、第3節のホモフォニーの合唱が続きます。第4節はソプラノが定旋律を唱い、他の3声部が絡んで進む、まるでチューリンゲン様式に則ったかのような展開となっています。そして最後にもう一度単純4声コラールが唱われて曲を閉じます。

アントン・ブルックナー
(1824-1896)

『正しき者の口は智恵を語り』 (SSAATTBB)

19世紀においてベートーヴェンの『ミサ・ソレムニス』と並ぶ傑作『ミサ曲へ短調』(1868)を残したブルックナーの後期に当たる1879年の曲です。ミサ典礼の使徒書簡朗読後の昇階唱で、当時の時代趣味を配慮し平易を心がけ、途中にフーガを交えながらも全体的にはホモフォニーでまとめています。

『エッサイの枝は花を咲かせたり』 (SATB)

リンツ大司教区百年祭のために依頼され1885年に作曲されたこの作品は、彼の交響曲様式によく見られる、いわゆる「ブルックナー開始」と呼ばれる「無」からわき起こってくるようなピアニッシモから、次第に音量を増して頂点に達した後、またピアニッシモから始まって徐々にまたは急激に音量を変化させる、大きなうねりを感じさせる作りを基調としています。

【J.S.バッハのオルガン曲について】

現存するバッハのオルガン作品は、一部の偽作も含めると約300曲ありますが、自筆譜(バッハの手で書かれたもの、かつバッハの作品と認められているもの)は100曲余りであり3分の1に過ぎません。残りはバッハの弟子等による筆写譜です。これらの成立年代は、自筆譜においては筆跡や楽譜に用いられた紙の透かし模様などから、筆写譜においてはその作曲技法や筆写者との関わりなどから推定していますが、早いものはアルンシュタット時代(1703〜1708)であり、続くヴァイマール時代(1708〜1717)、そして亡くなるまで過ごしたライプツィヒ時代(1723〜1750)と幅広く作曲しているようにも見えます。

しかし、その大半はヴァイマール時代までに作曲したものと思われ、ライプツィヒ時代は集大成に向けた取り組み、即ちヴァイマール時代或いはそれ以前に作曲したものに補筆・改訂を行い、幾つかのまとまった曲集にした、或いはしようとしたと考えられます。

今回演奏する曲名と成立年代は以下の通りです。

  1. 1. 『高らかに歓喜の声で In dulci jubilo』(BWV 729)  [おそらく1703-1707の間]
  2. 2. 『おお人よ、汝の大いなる罪を嘆け O Mensch, bewein dein Sunde gross』(BWV 622)
    「オルガン小曲集(BWV 599-644)」より  [1713-1716の間]
  3. 3. 『いと高きところには神にのみ栄光あれ Allein Gott in der Hoh sei Ehr(Gloria in excelsis Deo)』(BWV 664)
    「17のコラール」より  [1746-1747]

『高らかに歓喜の声で』と『おお人よ、汝の大いなる罪を嘆け』はア・カペラで唱う曲と同じタイトルのもので、この対比も興味あるところです。

『高らかに歓喜の声で』はその曲想からまさに演奏会のプレリュードにふさわしいものです。青年バッハの並はずれた才能と技術が相伴って、十本の指を余すことなく自由自在に動かし、活気ある曲に仕立てています。コラールメロディをこうも多彩に表現できるのか、といった感じです。

『おお人よ、汝の大いなる罪を嘆け』は一変してしっとりした、そして聴けば聴くほど深く深く心を洗われるような思いのする素晴らしい名曲です。楽譜は一見すると、とても短い曲に感じられますが、実際には5分もある作品なのです。《オルガン小曲集(オルゲルビュヒライン)》に含まれる曲の演奏時間はその殆どが1〜2分程度ですから、この曲が際立っているのがお分かりでしょう。「受難コラール」として意識したものなのでしょうか。目をつむりながらじっくりと聴いてみたいところです。

『いと高きところには神にのみ栄光あれ』はバッハが晩年にまとめた《17のコラール》の中の1曲で、トリオソナタ形式で書かれた華やかな曲となっています。17曲には全てヴァイマール時代或いはそれ以前の原曲があり、これらに補筆・改訂を行ったものです。この17曲がバッハの目指した1つの曲集として完成したものかどうかは今となっては不明ですが、この内容を見ると各曲にさまざまな技法が見られ、バッハの若き時代から晩年までのオルガン・コラール創作過程が認められるのです。その意味で《17のコラール》はオルガン曲における『ロ短調ミサ曲』と言えそうです。

(大石 康夫:会員)

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