第56回定期演奏会 曲目解説
ヨハン・セバスティアン・バッハ(1685-1750)
『ロ短調ミサ曲』 BWV232
◆『ロ短調ミサ曲』の特異性が生む様々な謎
バッハは晩年になって、若い頃に作曲しドレスデンの選帝侯に献呈した『ロ短調ミサ曲』第1部に当たるキリエとグロリア(いわゆる『1733年ミサ』)を全曲版に拡大するため、クレド以降を作曲しました。このときに書き加えられた部分の筆跡は、バッハの最晩年のものであることが明らかにされましたが、自筆楽譜からは素人目にも、これらの作品を書くことはバッハにとって多大な苦労を伴ったであろうことが想像できます。しかも、その筆跡からの印象は急いで書かれたようなのですが、その目的はいったい何だったのでしょう?通常バッハの教会音楽は礼拝のために創られ、演奏されたため、自筆総譜と演奏パート譜が残されているのですが、『ロ短調ミサ曲』においては現存するのは総譜のみです。この作品の全体または一部でも、バッハ存命中に演奏されたのでしょうか?そもそも、バッハは演奏を想定していたのでしょうか??
◆生涯の集大成の作品
バッハは『ロ短調ミサ曲』を第1部:ミサ(キリエとグロリア)、第2部:ニケア信条、第3部:サンクトゥス、第4部:オザンナ等、と区切った4部で構成しています。興味深いのはこれらの曲の大部分が以前に創られたカンタータを原曲に持つパロディ(編曲)であることです。そして、このパロディ過程の研究から、何十年も前の自作を正確に記憶し、適切に選び編曲し、このような大曲に首尾一貫して埋め込んで全体構成に構造化するという、バッハの並外れた営みが浮き彫りにされました。結果的に幅広い年代の原曲に遡って選曲し仕立て直したことが、『ロ短調ミサ曲』の多様性と高い完成度を生んでいたのでした。
- 新しい様式:“コンチェルト風”様式
この多様性を与えている大きな要素として、当時最先端であったイタリアにおけるヴィヴァルディ等の“コンチェルト風”器楽様式の採用が挙げられます。とりわけリトルネッロと称される、声楽曲における、冒頭・中間・後奏で繰り返される器楽部の役割が最近注目されています。バッハの創作活動のほとんどは、冒頭リトルネッロで基本的な創意は営まれ、後続部はリトルネッロ素材を加工したりして導き出されていたとする分析です。華やかに鳴り響くトランペットで開始する“グロリア”や装飾豊かな“ラウダムス テ”等にその典型が見られます。
- 伝統的様式:“パレストリーナ風”古様式
一方、上記に対比するものとして、“第2キリエ”、“グラツィアス”、“クレド イン ウヌム デウム”等では、伝統的モテット風の古様式が用いられています。バッハは一連の教会カンタータやヨハネ、マタイ、マルコの3つの不滅の受難曲を作曲した後、主要な教会音楽として『1733年ミサ』を作りましたが、それに先立つ1730年代の初めの頃に、パレストリーナ等のミサを写譜・演奏したりして、伝統的ミサ・古様式の研究に没頭しています。1733年の“第2キリエ”は、おそらくその最も初期の応用で、その半音階の主題はドイツの先達であるフレスコバルディの手法に近いものです。しかし、後年の作になる“クレド イン ウヌム デウム”では、バッハのオリジナリティが顕著になって独自の形態を生んでいます。ここでは、グレゴリオ聖歌の定旋律に基づきながらも、バロック音楽を特徴付ける通奏低音は独立した四分音符によって全宇宙を歩むかのような旋律を刻み、さらに、2つのヴァイオリンは声楽部を模倣しつつ、高い天上で独立した器楽部を演じるといった様に、音楽は立体的になり、古様式という仕掛けとバッハの音楽特質との共生が見て取れます。
- 教会建築に比較しうる構成美
(シンメトリー構造と各曲の対比の見事さ)バッハの対称性への関心を示す最良の例として、第2部:ニケア信条を見てみましょう(下表)。
明確な対称軸を作るために、バッハは最終段階になって特別にEt incarnatus est(キリストの受肉)を付け加え9曲の奇数としました。それはCrucifixus(十字架)を第3部の中心点とし、しかも、キリストの受肉・十字架・復活を表す3つの曲の中央に位置させるためでした。この3つの曲は、2つの独唱曲(Et in unumとEt in Spiritum sanctum)で挟まれ、ニケア信条の始まりと終わりにはペアになった合唱が配置されて、それぞれのペアは、それぞれ古様式(グレゴリオ聖歌付き)と「当世風」の対比的な曲からなります。このようなペアの活用によって、ニケア信条中間部の合唱曲への注目を喚起し、一方連続するCrucifixusとEt resurrexit(復活)のつながりは、これ以上考えられないほど見事なコントラストを生み出しています。
明らかに、対称的構造には、ニケア信条の上で述べた神学的な意味合いが反映され、その中にあって古様式では、時代を超えた永遠性が象徴されています。しかもバッハは、ニケア信条を、古いものだけではなく、彼の時代においても生きている信仰告白として示すために、独唱曲(Et in unumとEt in Spiritum sanctum)では「当世風」で華麗な手法を使用し、また合唱曲(Et incarnatusとCrucifixus)では考える限りの心情的、感動的な音楽技法を「人としてのイエス」の歌詞のところに使用しています。
ニケア信条の対称構造 1.Credo
(信ずる)D 2.Patrem
(全能の父)D 3.Et in unum
(唯一の主)G 4.Et incarnatus
(受難)h 5.Crucifixus
(十字架)e-G 6.Et resurrexit
(復活)D 7.Et in Spiritum
(聖霊)A 8.Confiteor
(信ずる)f# 9.Et expecto
(待ち望む)D 合唱
三位一体の
第1ペルソナ独唱
三位一体の
第2・3ペルソナ中心合唱
地上におけるイエス調性 永遠の命
◆後世はどのように受け止めてきたのでしょうか?
- 全曲演奏への道
バッハ存命中の演奏記録は第3部のサンクトゥスのみですが、18世紀には部分的に取り上げられたコンサートのプログラムが残っています。しかし、完全な形での演奏は旧バッハ全集版が発刊された19世紀後半になります。19世紀前半には、第一に、そのスケールと難解さゆえに演奏不能であり、加えて、大人数の合唱団やオーケストラの全員に行き渡るだけの演奏用パート譜やスコアを写譜するのは容易ではなく、演奏会用の作品となるには、信頼がおけ、かつ容易に入手できる版が必須条件だったのです。
- バッハは全曲演奏を意図していたのか?
新バッハ全集を担当したフリードリッヒ・スメントは、「ロ短調ミサ曲は4つの独立した作品であり、偶然に完全な典礼を形成するようにまとめられた。」と校訂報告(1954年)で結論付け、論争を巻き起こしました。これに対して、ダーデルセンや小林義武は筆跡研究等から、最晩年に“クレド”から“ドナ ノービス パーチェム”までを書き上げて“ミサ トータ(全曲ミサ)”とした、バッハのまさに“白鳥の歌”であることを検証しています。このような経緯から『ロ短調ミサ曲』に関しては、バッハの最終的な意図を反映した決定版としての“新々バッハ全集”が待ち望まれています。
- 演奏スタイルの変遷
バロック演奏は大人数の合唱団やオーケストラでの演奏から、少人数の合唱や室内オーケストラへと流れが移ってきていますが、その究極はジョシュア・リフキンの実践です。「バッハは声楽作品の多くを1声部1人で演奏した。」と主張し、その実証のために『ロ短調ミサ曲』の録音(1980年代)で訴求したのです。この説には異議も多く出されていますが、ポリフォニーの織り目をクリアに響かせた「ロ短調マドリガル」の発見という効果をもたらしたことは特筆できます。
- 歴史的転回軸に立った『ロ短調ミサ曲』
このようにバッハの『ロ短調ミサ曲』は、18世紀前半までの典礼における実用的音楽と、19世紀ロマン主義時代に主流となる“自立的な”宗教音楽の、ちょうど歴史的転回軸に立っていると言えるかもしれません。従って、典礼音楽で問題になる「ルター派用なのか、カトリックミサなのか」といった論争を越えた宗派的両義性、さらにはそれをも越えた普遍性という観点から捉えようというのが、現在においては相応しいように思えます。
◆さて、目的は何だったのでしょうか?
二つの有力な仮説を紹介します。一つはバッハが『1733年ミサ』をドレスデン宮廷のために作曲したという事実に着目し、『ロ短調ミサ曲』の完全版もまた宮廷へ捧げるため、または宮廷から作曲依頼を獲得するために作曲したとする説です。
もう一つは、『ロ短調ミサ曲』はミツラーの音楽学術協会への最終稿であったというものです。この協会は1738年に設立されテレマン、ヘンデル等の代表的音楽家が加わったもので、バッハは1747年に14人目(B=2,A=1,C=3,H=8を足すとBACH=14となる)に入会し、毎年作品を納める義務を担いました。それで1747年『高きみ空よりわれ来る』のカノン、1748年『音楽の捧げもの』、1749年『フーガの技法』を納めていますが、1750年は納めないままに亡くなってしまいました。これまで述べてきたように、バッハの最晩年における注力からして、『ロ短調ミサ曲』こそ、1750年に想定されていた作品ではないでしょうか。また、これは特に一連の古様式、伝統への傾倒を考えるとき、極めて妥当な推論と私には思えます。
藤井 良昭 (会員)