第62回定期演奏会
八尋和美先生就任40周年記念演奏会
—ブラームス・ドイツレクイエム—
J.Brahms ブラームス |
"Ein deutsches Requiem" op.45 「ドイツ・レクイエム」 |
F.Mendelssohn Bartholdy メンデルスゾーン |
"Hymne 'Hör mein Bitten' " 「讃歌《わが祈りを聞きたまえ》」 |
F.Mendelssohn Bartholdy メンデルスゾーン |
"Kyrie d-moll" 「キリエ ニ短調」 |
指揮: | 八尋和美 |
ソプラノ: | 天羽明惠 |
バリトン: | 吉原輝 |
管弦楽: | 東京バッハ・カンタータ・アンサンブル |
合唱: | 横浜合唱協会 |
2013年02月03日(日) 14:00開演(13:20開場) | |
横浜みなとみらいホール 大ホール | |
演奏会チラシ | pdfファイル(ca. 1.1MB) (上記の表裏分割pdfファイル 表面(904kB) 裏面(308kB)) |
指揮者からのメッセージ
ブラームスとの出会い
「レクイエムならモーツアルトだろう!」「いや、フォーレはきれいだし、音も取り易いぞ」「ヴェルディーはどうだ?」「あれはオペラだよ。でかい声を持っている団体じゃないと無理だね」「ブラームスは?」「おっ!渋いね」「だめだめ!難しくて歯が立たないよ」
この会話、60年以上前に私が在籍していた福岡の合唱団員達、それも合唱に詳しいベテランの人たちの会話です。場所は、この合唱団の指揮者、安永武一朗氏(ベルリンフィル元コンマス安永徹氏の父君)宅二階のレッスン室で、夏の夕方、窓を開け放ったざっくばらんな雰囲気の中でした。当時、レクイエムの「レ」も知らなかった新米団員の私にとって、先輩方の言葉がなんとも新鮮で、特にブラームス(私は“子守歌”と“ハンガリー舞曲”しか知らなかった)に、渋くて難しい「レクイエム」なる作品があるのを知ったのは、この時が初めてでした。
空想の中のブラームス・レクイエムとの初対面はこの2年後、芸大に入学した年にやって来ました。この年の芸大秋の定期演奏会に、この曲が組み込まれ、入学早々の4月から週2回の練習が始まったのです。指揮は当時第一線で活躍中の金子登氏、練習ピアニストが一学年上でまだあどけなさの残る小林道夫さんでした。ずっと後の事、小林さんがこの時を回顧して、FM番組の中で次の様な意味の事を語っておられました。「ブラームス・レクイエムはとっつきは悪いのですが、やっているうちに味わいの出てくる曲です」と。
バリトンのソリストは当時4年生の大賀典雄さんでした。声楽家でありながら最後は大会社ソニーの会長まで登りつめられた方です。エピソードがあります。当時NHK交響楽団指揮者のクルト・ヴェスさんが、芸大にこのブラームスのレッスンに来ました。3楽章の大賀さんのソロ、「siehe!」... ヴェスさんがストップ、もう一度「siehe!」「ナイン(違う)」もう一度「siehe!」... ヴェスさん、やおら大賀さんの腕を引っ張りました。笑っていたから怒っていたのではなく、「君の発音は“引っ張れ/ziehe(ヅィーエ)”で“見よ/siehe(ズィーエ)”には聞こえない」と言うのです。大賀さん少しも動じず、左手の指で○を作ってOKのサイン。ヴェスさん苦笑。大賀さんの若いうちからの大物の片鱗を見せた一こまでした。私にとっては、ドイツ語の微妙な発音に気付かせてくれた瞬間でもありました。</p>
練習の初期は確かにとっつき悪く、友達同士で「音が取れねーんだよなあ」とかぶつぶつ言いながら、気乗りしない雰囲気だったのを覚えています。それぞれ2楽章、3楽章と進むにつれて、はっきりと全体の様子が変わってきたのです。私自身の体の中にも、おぼろげながらブラームスが、あの福岡の先輩の言葉と共に入ってきたような気がしました。それ以来折にふれて「ブラームス・レクイエム」は、私の体の中で醸され続けているのです。
八尋和美
第62回定期演奏会 曲目解説
◆メンデルスゾーン
Kyrie D-dur (1825)
キリエ ニ短調
ゲーテの親友であった作曲家ツェルターに厳格な対位法を学んだフェリックス・メンデルスゾーンは1825年の春、父のパリ出張に同伴した時、巨匠ケルビーノを訪問し自作のピアノ四重奏曲を披露し絶賛されました。自身の価値を意識した16歳のフェリックスがケルビーノのニ短調ミサ(1811)の主題に基づいて5声の対位法に仕上げたのが本曲です。ここには円熟期の大作オラトリオ“エリア”の冒頭フーガを予示する技法が随所に見られます。その神童ぶりを存分にお聴き下さい。
"Hymne 'Hör mein Bitten' " (1847)
讃歌《わが祈りを聞きたまえ》
イギリスで“エリア”の初演に打ち込んでいた際、イギリス人の依頼で英語テキストにオルガン伴奏の曲として1844年に作られ、英・独の両テキストで出版されました。その後オーケストラ曲への編曲依頼を受け、1847年に完成させましたが、出版を見ずに世を去りました。メンデルスゾーンならではの心に染み入るメロディでビクトリア朝の最大の人気曲になりました。
◆ブラームス
"Ein deutsches Requiem" (1868) op.45
ドイツ・レクイエム 作品45
1853年9月、20歳のブラームスは紹介状を携えてシューマン家を訪問、自作を見せピアノ演奏を披露し、シューマン夫妻(夫ローベルトは43歳の大成した作曲家、妻クララは当代一のピアニスト)に深い感銘を与えました。鋭い音楽批評家でもあったシューマンは雑誌『音楽新報』に「時代の最高の表現ができる新人が現れた。彼の名はヨハネス・ブラームス。」と絶賛文を掲載します。しかし、心の病を患っていたシューマンは翌年ライン川に身を投げ、2年半の苦闘のすえ1856年に世を去りました。このシューマンの死はブラームスが「レクイエム」に取り組む大きな動機になっています。
☆「ドイツ・レクイエム」と歌詞テキストの選定
レクイエムは伝統的にラテン語の典礼文に作曲されていました。しかし、ブラームスはルターのドイツ語聖書から自分が選んだ聖句を配置してテキストとしたため、「ドイツ(語による)レクイエム」と呼ばれることになりました。このスタイルは、古くはシュッツが17世紀に「音楽による葬送SWV281」に採用し、晩年のシューマンも構想していました。ではブラームスはどのようにしてテキストを選定したのかを見てみましょう。全体は7楽章から成りますが、1,4,5,7楽章は比較的伝統的な聖句、2,3,6楽章はブラームスの思想が強く表れた選定となっています。1,7楽章は両枠となる”Selig sind幸いなるかな”の伝統的聖句、4楽章はシュッツも作曲している “天国への思い”の詩篇、5楽章は“母の死”の関連聖句です。一方、2,3,6楽章は3つともフーガをともなう(A、B)2部形式で作られ、下の表に示したようなストーリーを持っています。
楽章 | 形式 | ストーリー | 聖書箇所 | 主題(テーマ) | ||
---|---|---|---|---|---|---|
2 | 2部形式 (A,B) |
A: | 《叙述部》 | 「人はみな死すもの」=朽ちる種だ/「主が来られるまで」=忍耐せよ | 第一ペテロ1/ヤコブ5 | 《叙述》葬送:忍耐 |
《移行部》 | 「主の言葉は永遠」=朽ちない種の提示 | 第一ペテロ1 | ||||
B: | 《フーガ》 | 「主に贖われ帰る」=栄光(朽ちない種)の回復 | イザヤ35 | 《フーガ》希望 | ||
3 | 2部形式 (A,B) |
A: | 《叙述部》 | 「主よわが終わりは」「わが生命は無」「何を待ち望む?」=自己存在論 | 詩篇39 | 《叙述》我は何者か、どこへ行くのか? |
《移行部》 | 「わたしはあなたを待ち望み」=希望 | |||||
B: | 《フーガ》 | 「正しい者の魂は神の御手」=確信 | 知恵の書3 | 《フーガ》信仰宣言 | ||
6 | 2部形式 (A,B) |
A: | 《叙述部》 | 「永遠の地を持たず」=自己存在論 | ヘブライ13 | 《叙述》最後の審判:裏付け |
《叙述部》 | 「我らは変えられる」=挑戦,「最後の審判」=裏付け,「死者は甦る」=希望 | コリント15 | ||||
《移行部》 | 「地獄よ,お前の勝利はどこだ?」=勝利 | |||||
B: | 《フーガ》 | 「主は,栄光、誉,力に相応しい方」=復活 | ヨハネ黙示録 | 《フーガ》復活の確信 |
3つの楽章とも前半では「死と生」の思索を叙述し、移行部で「救い」が示され、フーガ部では「救い・復活」への確信、信仰宣言となっていると考えられます。19世紀にはヘーゲル、ニーチェ等が現れ宗教・信仰が哲学的に問い直された時代でしたが、この3つの楽章では音楽と合わせることによってブラームスの思索を読み取ることができます。
☆全体はどのように作られているのでしょうか
全体は、1.熟慮された各楽章形式、調性配置を有する対称構造を持ち、全体の統一感を生み出すため、 2.全楽章に現れるモットー、 3.ほぼ全楽章に埋められたコラールで構成されています。
- 各楽章の形式、調性配置については、全7楽章が(1,2,3/ 4,5/ 6,7楽章)の3つのグループ分けられ、1,7楽章のヘ長調(F-dur)を外枠にして、4楽章を中心に配置し、2,3と6楽章が共通点を持った対称構造となっています。各楽章のところで述べますが、楽章内での明瞭な短・長調対比やロマン派の特徴である3度の転調が効果的に用いられています。
- 全楽章には下譜例の”Selig sind幸いなるかな”の「モットー」が要所で出現します。「モットー」は例えば有名なベートーヴェンの運命の「ダダダダーン」のように主題ほど旋律としてまとまった構造を持たない素材で、全体構造の礎となり、底流で鳴っていることによって統一感を生みだすものです。
- ほぼ全楽章に下譜例の、バッハのカンタータBWV27 “Wer weiss, wie nahe mir mein Ende!誰知らん、我が終わり近づくことを”で使用されているコラールが埋め込まれています。意味内容も3楽章の”Herr, lehre doch mich, dass ein Ende主よ、我が終わりを教えて下さい“に近いことが注目を惹きます。
☆構想から完成まで10数年を要しています
シューマンの死が「レクイエム」作曲の動機となり、実母の死がその完成に向けて拍車をかけました。
- 1856(23歳)
- (シューマンの死) 葬送行進曲(1854年作曲のニ短調ピアノ協奏曲スケルツォ)をレクイエム2楽章としてコラール風行進曲に改作。
- 1865(32歳)
- (2月に母の死) 3楽章を春に、1,4楽章を夏に、6,7楽章を8月に作曲。
- 1868(35歳)
- 5楽章を加え全曲を完成。翌年、ライプツィヒで全曲を初演。
シューマンは「ミニョンのためのレクイエム(作品98b)」やラテン語の「レクイエム 変ニ長調Des-dur(作品148)」を作曲していますが、「ドイツ・レクイエム」も構想していた記録が残されています。従ってシューマンの死が「レクイエム」作曲の動機となっただけでなく、ドイツ語による創作の意思も受け継いだものと考えられます。作曲に当たってブラームスは、シューマンのみならず、シュッツ、バッハ、ベートーヴェン、シューベルト等偉大な先達の音楽を深く研究し吸収したうえで、長い年月をかけてブラームス・トーンに創造的に変身させました。こうした創作態度は他のジャンルにも共通するもので、若い時から取り組んでいた交響曲でも、ベートーヴェンの後に相応しいものとして第1交響曲を世に問うたのは、「ドイツ・レクイエム」の成功で作曲家の地位を確立した10年後の1877年でした。
☆各楽章について
- 1楽章 ヘ長調(F-dur)、4/4拍子 「かなりゆっくりと、そして表情をつけて」(A,B,A)3部形式
- 上述譜例のコラール旋律で”コラールプレリュード “風に展開する”天上と地上”の音楽対話。
- A部:
- 無伴奏合唱が”Selig sind幸いなるかな”の「モットー」で“天上”の音楽を奏でる。
- B部:
- シューマン的な変ニ長調(Des-dur)に転調し、”死の悲しみと再生の喜び“を対比的に描く。
- コーダ(結び);
- 天の声のような“getröstet慰められる”が「モットー」の下降音型で歌われる。
- 2楽章 変ロ短調(b-moll)、3/4拍子 「ゆるやかに、行進曲風に」(A,B)2部形式
- 19世紀の時代精神が溢れる曲で、葬送行進曲(短調)と長大フーガ(長調)の対比が鮮やか。
- A部:
- ロマン派好みの変ロ短調(b-moll)、フルオケでppとffがマーラーのように強烈に対比される。
- B部(フーガ):
- 移行部”aber.....しかし“、に続き、同主調の“変ロ長調(B-dur)となり、”ewige Freude永遠の喜び”に向け、三重に繰り返し高揚する劇的なフーガは、ベートーヴェン「第九」を想起させる。
- 3楽章 ニ短調(d-moll)、2/2拍子 「アンダンテ モデラート」(A,B)2部形式
- アリオーソ風対話曲、伝統調性“ニ短調(d-moll)”と力強いフーガ“ニ長調(D-dur)”が明瞭に対比。
- A部:
- バリトン独唱が合唱と掛け合いながら曲の方向性示し長いテキストを語っていく。
- 移行部:
- “主よ、私は何を待ち望みましょう?”では重低音部が消え、存在基盤の喪失を象徴表現。
- B部(フーガ):
- 移行部と打って変って強烈な”ニ音dの重低音”による保持音が現れ、歌詞に出てくる「神の御手」を確信させる。この重低音が初演の際物議を醸した。
- 4楽章 変ホ長調(Es-dur)、3/4拍子 「適度に動きを持って」(A,B,A)3部形式
- 重厚なフーガが続いた後、シンメトリーの中心に置かれた器楽的な舞曲で、「主のすまい=天国」への黙想的思いを、穏やかな木管の色彩を伴って舞曲感豊かに奏でる。
- 5楽章 ト長調(G-dur)、4/4拍子 「ゆるやかに」(A,B,A)3部形式
- 独唱ソプラノがオーケストラと対話する内省的アリア。「ソプラノ=母」を越えた普遍的な慰めとなり、4楽章の黙想的内容を強めている。フルート、オーボエ、クラリネット、弱音器バイオリンは繊細な光背となり、最後では管楽器と弦の和音が一体化して、天上の響きを醸しだす。
- 6楽章 ハ短調(c-moll)、4/4拍子 「アンダンテ」(A,B)2部形式
- 「最後の審判」に当たるところで、全曲の完成に向けすべてを結集した、劇的で凝集された力作。
- A部:
- 「我ら、永遠の都を持たず」が歩みの旋律と半終止を繰り返す和声で進行する。バリトン独唱が“神秘”を告げ、頂点となる“最後のラッパ”が響き「ヴィヴァーチェ」に突入。「死者は蘇り、我らは変えられる」と強烈なリズムとなり、「死は勝利にのみこまれた」が執拗に繰り返される。
- 移行部:
- 最後の歌詞“Wo ist dein Sieg? (地獄よ)お前の勝利はどこだ” が引き伸ばされる。
- B部(フーガ):
- 一つは堅固、もう一つは抒情的という対照的なフーガ主題で構成。後者が魅力的に演奏指示espress.で表情豊かに歌われ、“神の栄光と力を讃え”ホモフォニックに結ばれる。
- 7楽章 ヘ長調(F-dur)、4/4拍子 「Feierlich荘重に、厳粛な」(A,B)2部形式
- 主題“Selig sind die Toten主に結ばれて死ぬ人は幸いである”を、ソプラノが主調で天上的に響かせ、次にバスが属調で歌い継ぎ、全パートで自由に彫琢していく。天上に誘うような響きを醸すオーケストラが相まって、テキスト内容と和声両面で1楽章と対称を形成して結ばれる。
☆先達へのオマージュ(献辞)
現在の7楽章が完成するまでに、段階的に初演が行われています。
- 1867年12月
- ウイーンにて;ヨハン・ヘルベック指揮 1-3楽章
- 1868年4月
- ブレーメンにて;ブラームス自身の指揮 5楽章以外の全曲
- 1869年2月
- ライプツィヒにて;カール・ライネッケ指揮 全曲
1867年の初演は失敗に終わりました。ブラームスが重要としていた3楽章フーガの重低音保持音を担当者が指定以上に強く演奏し、他の声部をかき消してしまったためと言われています。1868年は万全を期してブラームス自身が指揮しました。「あとはシューマン夫人ただひとり、いてくれないと悲しいよ」と待っていたクララ・シューマンが、はるばるかけつけ開演に間に合い、驚きと喜びのブラームスにエスコートされ会場に入りました。演奏はただただ圧倒的で、聴衆はこのレクイエムが、人類に供された大名曲と肩を並べる作品だと、その場ではっきりとわかったのでした。
シューマンの死が動機となり、「ドイツ語でのレクイエム」の意思を受け継いで長い年月をかけて創作に打ち込みましたが、この作品にはシューマンのみならず、自分が研究してきたシュッツ、バッハ、ベートーヴェン、シューベルト等、偉大な先達へのオマージュ(献辞)が込められていると思います。
合唱曲解説:藤井良昭