Yokohama Choral Society
-横浜合唱協会-

横浜合唱協会第57回定期演奏会曲目解説

第57回定期演奏会 曲目解説

J.S.バッハ(1685〜1750)

「み霊はわが弱きを助け給う」(BWV226)

バッハの上司で、1729年10月16日に77歳で亡くなったトーマス学校長エルネスティの葬儀のための曲です。彼はライプツッヒ大学の詩学教授を兼ねていて、葬儀は大学教会でもあるパウリ教会で1週間後くらいに行われました。恐らく生前に故人から頼まれていたのでしょうが、会場や使用できる楽器が決まり正式依頼を受けた後、家族や生徒を動員して大急ぎで演奏譜を作成し、リハーサル等の上演準備をした様子が、残された自筆総譜の訂正跡やオリジナル演奏譜の筆跡等から窺えます。

全体は委託された歌詞である「ローマ人への手紙8章26,27節」と、「ルターの詞」によるコラールから成っています。

さて、開始部に会衆は驚いたかもしれません。「み霊は我らの弱きを心に留め」が、嘆きの音色ではなく、協奏曲風の2重合唱でかなり軽快な舞曲パスピエで始まったからです。後段は、しかし、対照的に「どう祈るべきか知らない我々を」の“祈るbeten”の言葉に合わせてしっとりした歌唱風になります。

中間部は実質的に5声フガートで、「しかし、聖霊はうめきを持って神に執り成してくださる」では、豊かな絵画性と強い表現力でテキストを模写したマドリガル様式となり、特に、み霊の“言葉にされないうめきSeufzen”の所で、不協和音の結合やメリスマでうめきが強調され、メロディには短調の混濁、半音進行、減音程が増えていきます。

終結部は厳格な対位法楽章です。初めのフーガ「人の心を見抜く方は、み霊の思いが何であるかを知っていて」は、古様式、荘重でテキスト口上は石を打ちつけるように朗唱されます。パレストリーナの伝統イデオムに立ち返り、テーマは濃密で進行するカノン的な運びで強調されます。二つ目のフーガ「聖なる者たちのために執り成してくださる」では、良く弾む音の繰り返しがあり、“聖なる者たちHeiligen”のメリスマに力強いバロック的音色が加わり楽章を締めくくります。

最後は単純4声コラールです。すべての緊張は解放され、先の楽章の芸術性と技法は簡素な祈りに流れ込んでいます。葬送音楽の最後でルターの力強い韻文は、み霊の慰めと助力のための願いとして充分に語られます。それは艱難にあって助け導き、生と死を越えて、雄々しく進んで行けます様にとの称讃のうちにその祈りを鳴り終わらせています。

このように、個人的に委託された葬儀の曲ですが、聖書とルターの韻文をテキストとし、協奏曲風の2重合唱、舞曲、マドリガル様式、対位法、コラールという伝統的な手法を縦横無尽に駆使したこのモテットは、使用目的や時間を越えた祈りを現代の私達に授けてくれました。

F.メンデルスゾーン(1809〜1847)

「主よ、今こそあなたはこの僕を安らかにいかせ給う」(Op.69-1)
「全地よ、主に向かって喜びの声をあげよ」(Op.69-2)

メンデルスゾーンが亡くなる年の1847年に、イギリス国教会の典礼のために、作品69-1は晩_用、作品69-2は早_用として作曲されました。従って英語テキストに曲付けされ、死後の1848年にドイツで出版する際にドイツ語訳が付けられましたが、訳者は不明です。

作品69-1のテキストは、「主が遣わすメシアに会うまでは、決して死なない」との御告げを受けていたシメオン老人が、ようやく主に出会い「主よ、今こそあなたはこの僕を安らかにいかせてください」と発するものですが、38歳の若さで夭折したメンデルスゾーンに重ねるのは何とも辛いことです。旅は、まだ19世紀において危険を伴う厳しいものであり、ヨーロッパの諸都市から引っ張りだこで超過労状態にあったメンデルスゾーンには、現代の神ならばドクターストップを告げていたのではないでしょうか。

曲は「安らかにいかせてください」のフーガで始まり、Soloと指示された「私はこの目であなたの救いを見たからです」を経て、「異邦人を照らす光」「イスラエルの誉れ」が付点リズムを伴って強く歌われ、冒頭の「安らかにいかせてください」が繰り返されて締めくくられます。最後に典礼で定まっている「父と子と聖霊に栄光あれ」の小栄唱が添えられています。

作品69-2は詩篇100がテキストで、「全地よ、主に向かって喜びの声をあげよ」と、「彼は神、我らの主」がトゥッティで力強く歌われ、「おお、感謝しつつ主の門に進み」で短調のメロディがテノールから開始して、ソプラノ、バス、アルトと続きます。最後は「なぜなら、主は思いやりがあるから」と締めくくられます。やはりここでも小栄唱が添えられています。

祖父が高名なユダヤ人哲学者で、父の代にプロテスタントに改宗し、自身は幼いときにプロテスタントの洗礼を受けたメンデルスゾーンですが、カトリック、イギリス国教会、プロテスタントと宗派を問わず、このような典礼の曲を生み出しました。しかしながら、この年の11月4日、彼は脳溢血で亡くなりました。臨終に立ち会ったピアニストで作曲家のモシュレスは「天使のように安らかな彼の顔つきには、彼の不滅の魂が押されていた。」と語っています。

藤井 良昭 (会員)

C.V.スタンフォード(1852〜1924)

「3つのラテン語モテット」(Op.38)

北アイルランドのプロテスタントの家庭に生まれたスタンフォードは、ケンブリッジのクイーンズ・カレッジに進み聖歌隊のメンバーとなりました。その後トリニティ・カレッジに移った時から、音楽家としてのキャリアを本格的にスタートさせました。1874年〜1876年にドイツへ渡り、ライプツィヒ、ベルリンで作曲を学んだスタンフォードは、このときにライネッケなどの当代一流の作曲家の指導を受け、ブラームス、サンサーンスらとの親交を持ちました。1883年、ロンドンの王立音楽大学ではその開設以来、初代作曲科の教職として没するまでパリーと共に教授を務め、グスタフ・ホルストやヴォーン・ウィリアムズ、フランク・ブリッジ、バターワース、レベッカ・クラーク、アーサー・ベンジャミン、ハウエルズら、数多くの作曲家たちを育て、イギリスの音楽の二度目の黄金時代(イギリス音楽のルネッサンス)を準備しました。1902年にはイギリス王室によってその功績が認められ、ナイトに叙されています。

スタンフォード作品の魅力は、なんと言っても親しみやすい流麗な旋律です。作風はブラームスの影響を強く受け、宗教曲においてはパーセル、メンデルスゾーンをその範としています。穏やかで美しい響きを持たせた作品を描く一方で、「疾風怒濤」という表現がぴったりの激しい作品を作曲しているところも、スタンフォードが変化に富んでいて面白いところです。

「3つのラテン語モテット」はスタンフォードの作品の中ではもっともよく知られた作品のひとつで、1905年に出版されました。第1曲と第2曲は1888年に作曲され、第3曲6声の「Beati quorum via」はおそらく1890年頃に作曲されました。1曲目の「Justorum animae in manu Dei sunt」のテキストは知恵の書の3章1節から3節から抜粋されています。はじめ穏やかな美しい旋律で始まり、中間部は激しく、後半は再び優しい旋律に戻り、最後に「illi autem sunt in pace(彼らは平和の内にいる)」では、pppの静かで豊かな響の中で曲が終わります。小さな作品の中にテキストに沿った緩急やポリフォニーとホモフォニーの切り替えなどの変化に富み、スタンフォードの魅力がこの一曲に詰まっています。2曲目の「Coelos ascendit hodie」は二重合唱でアレルヤの掛け声を挿みながら高らかに神を讃えます。3曲目の「Beati quorum via」は詩篇119番をテキストに、SSATBBの6声部で書かれていますが、SSA+TBBの二重合唱のような作品で、全体に二つの合唱が「Beati...」と「Qui ambrant...」の幸いに満ちたゆったりとした二つの主題を交互に歌います。

J.ヴァイラオホ(1897〜1977)

「マニフィカト」
「主キリスト、神のひとり子」

ヨハネス・ヴァイラオホはライプツィヒの作曲家で、教師としても活躍しました。彼の初期の作品(主に室内楽)はまだロマン派後期のスタイルで書かれていましたが、その後、彼は凝ったメロディーや和音、リズムの表現を抑えて、変化のないベーストーンの上で言葉を喋るといった手法を採用するようになり、これが教会音楽における彼の福音主義につながっていきました。

「マニフィカト」では、オルガンを伴ったソプラノのソロの美しいレチタティーヴォで聖書の言葉(ルカ第1章45,46節)が語られます。合唱は最後の9小節だけで、「父と子と聖霊に栄光あれ」の小栄唱を三位一体を意図した合唱の和音で語られます。

「主キリスト、神のひとり子」はニコデモのモテットとして知られるテキストで、ヨハネによる福音書の第3章から採られています。ユダヤ教のファリサイ派の指導者のニコデモが、イエスとのやり取りのうちにイエスに傾倒していく場面を、福音を女声が天の声として、ニコデモをバス(一部にテノールが加わる)が、そしてイエスの言葉を合唱が語るレチタティーヴォです。現代的な音付けがなされていますが、H.シュッツから現代にまで連なる福音音楽の伝統が強く感じられます。

A.ペルト(1935〜)

「ベルリン・ミサ」

アルヴォ・ペルトは1935年エストニアのパディンという小さな町に生まれました。1957年からエストニア・ラジオで放送局の音響ディレクターをしながら、タリン音楽院で作曲を学びました。はじめは12音技法を用いた前衛的な作曲を行っていたペルトですが、1967年にはじめて東方教会の単旋聖歌を聴いて以来、グレゴリオ聖歌、ペロティヌス(ペロタン)、オケゲム、ジョスカン・デ・プレらの中世、ルネサンス音楽の研究に没頭し、1976年にピアノのための小品「アリーナのために」を発表、「ティンティナブリ(鈴鳴らし)様式」と呼ばれる彼独自の技法を確立しました。ペルトは言います、「これは新しい地平から生まれた最初の作品だった。私はここで三和音の線を見つけたのだが、これは私の小さな簡潔な原理となった。」ペルトがティンティナブリ様式を得てからは、彼のスコアは全てこの鐘の音によって貫かれています。そこでは長い時間固定して奏される基調音の上に三和音の三つの音だけが奏され続けます。その際、パートの一つが共鳴する領域を探索するように動き、三つの音は、雛形となる旋律声部に完全に依存します。簡素な旋律が重なり合い、ぶつかり、反復することで鈴が鳴り響くように聞こえ、美しい一瞬一瞬の音の輝きを見るようです。1980年にオーストリアへ亡命し、まもなくベルリンに移ったペルトは、この頃からキリスト教の典礼文に作曲した「テ・デウム」「マニフィカト」「ベルリン・ミサ」など宗教曲を多数発表しています。

「ベルリン・ミサ」は、ベルリンで行われた第90回ドイツ・カトリック大会のために作曲され、6年後に修正されました。はじめ、4声のソリストとオルガンのために作曲されていましたが、修正後には合唱とオルガン、または合唱と弦楽アンサンブルのための作品となっています。

「Kyrie」ではアルトが歌い始め、次の小節でソプラノが入るとすぐにティンティナブリ様式が現れます。ソプラノとテノールによるg-mollの分散和音の中で、アルトとバスが哀愁に満ちた旋律を奏で合唱の祈りが静かに進みます。「Gloria」は同じ調ですが、より活気のある音楽が展開されます。

次に、カトリックのミサ礼拝式の習慣に従って、二つのアレルヤ唱と「Veni Sancte Spiritus」が挿入されます。「Veni Sancte Spiritus(聖霊よ、来てください)」では、4つの声楽パートは等価で、次々に主従が入れ替りながら旋律を歌います。時折り他のパートにより部分的にハーモニーが加えられます。

「Credo」は、E-durの和音で、ペルトが既に作曲していた「Summa」を事実上再構成しているという点で非常に興味深く、しかも「Summa」では短調だったものが長調に変更されています。「Summa」が書かれた頃のソヴィエト支配下のエストニアでは、信仰告白は社会主義体制に対抗する行為とされていました。調性を短調から長調へ変更することは、明らかにヨーロッパにおける社会主義支配後の大きな自由を称えているのです。「Sanctus」はより内向的な、静かな祈りがcis-mollで歌われ、「Agnus Dei」では分散和音のパートと旋律のパートが入れ替わりながら静かに同じ旋律を繰り返し、そして最後は女声を男声が一拍ずれて追いかけたまま、静かに深い静寂の中で曲を閉じます。

馬岡利吏(会員)

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