Yokohama Choral Society
-横浜合唱協会-

2002年ドイツ旅行記念誌Web版第3章

運営面から

第2次ドイツ演奏旅行−【経緯と前回比較】

藤井 良昭

今回の骨格

20年弱も待ち望んでやっと実現した初めての、そして大感動の初回ドイツ演奏旅行。その余韻の中で「是非5年後にもう一度やろう」と圧倒的な賛成で第2次の予定が組まれた。2000年バッハイヤーの記念演奏会も大きな感激を味わって終えると、まだまだ先と思っていたものが間近に迫ってきた。更なる喜びを得るには前回と同じライプツィヒ、タールビュルゲルだけでなく、新規開拓が必要と思っていたところ、幸いなことに記念演奏会共演者のお二人から紹介が得られた。ペッツォルトさんからのハンブルク合唱団との交流と、ブロイティガムさんからのアンネン教会での演奏の話しであった。検討の結果、主には地理的条件から、さらにはブロイティガムさん言うところの『ドイツで最も美しい教会と風光』に惹かれてアンネン教会が選ばれた。その上、ライプツィヒの聖トーマス教会では、土曜のモテットを八尋先生、日曜の礼拝式をビラーさん指揮という理想的な形が実現した。そして、タールビュルゲルでは八尋先生曰く「横浜合唱協会のプログラムで初めて僕が我が儘を通した『追分節考』」が、前回の「民族音楽と融合した近代的な曲で聴衆を魅了と評された『コンポジション』」に匹敵する日本の曲として据えられ、今回の骨格が出来上がった。

前回との比較

まずは数字の比較、前回をかっこで示すと、参加者数57人(69人)、参加率75%(87%)と、人数で12人、率で12%低下。演奏旅行の名が示すところの、演奏と旅行のバランスを比較すると、前回は出演者も参加可能なオプション旅行を5つも組み「バッハとルターへの旅」がサブテーマになる程であったが、今回はプラハ、バンベルクが「世紀の大洪水」で中止になったこともあって、移動日の2回の旅だけとなり演奏主体となった。また前回頂いた国際交流基金の助成金が無く、会員負担は増した。

アンナベルクでの新体験

鉱物学を趣味とするブロイティガム教授ご案内のトロッコで踏み入った銀採掘跡の地下空間もさることながら、アンネン教会の大空間、5秒という長い残響に映えるブロイティガムの詩篇を体験し、諸作曲家の音楽が生み出されていく時空間の固有性について改めて考えさせられた。翻ってバッハのカンタータや受難曲は聖トーマス教会に集う会衆に向けた歌詞で、そこの響きに合わせて作られた。それなのに、いや、そのような固有性ゆえであろうか、バッハの死後その聖トーマス教会でさえ、あまり演奏されず忘れ去られてしまった。100年の時のフィルターを経て固有性を越えるものが、メンデルスゾーン等多くの人々によって見出され普遍性を獲得してきて、今こうして日本人が歌っている。

次回の可能性

第一には参加者数、参加率が減衰軌道に落ち込まず、60人、80%を越えること。第二に新規開拓、八尋先生の言では「次回は5公演と毎回一つずつ増やしていく。そうすれば、私が百歳の時には、毎日公演の10公演となる。」さらに、ドイツ側の協力者の拡大、迎えてくれる聴衆、取材陣、助成金の資金援助等の条件に恵まれてこそ実現できるものである。

現地との交渉

外務省一連の外交政策について

YCS外務省は2002年夏の旅行に関しての以下の通り記録を残しています:
・・・ 2000年のJ.S.バッハ没後250年記念演奏会後、1997年に引き続いてライプツィッヒ、タールビュルゲルで演奏をする予定に加え、ブロイティガム氏からのアンナベルグ・アンネン教会紹介により、2002年夏の演奏旅行は3公演となる模様 ・・・。

▽ さて、ライプツィッヒでの演奏について、2001年2月6日ビラー氏からモテット演奏の提案が書面にて届き、それに対して、日程が2002年8月10日土曜日、さらに3月8日になって曲目がバッハのモテット2曲とレーガーに決定した。しかしその後外務省担当事務官の怠慢により、連絡は途絶えてしまった。

一年後の2002年3月7日、ビラー氏から連絡再開と同時に8月10日のモテットに加えて、8月11日日曜日の礼拝の提案があったが、その後のプログラムや事務的なことに関しての連絡先はビラー氏ではなく、教会事務局担当となる。メールで1,2回やり取りがあったものの、ほぼ音信不通に近い膠着状態が続いた。

さらに外交上は問題ないが Frau Saito はいつしか表記上 Herr Saito となった。ラテン語では語尾にOがつくと男性名詞なので、Misako Saito と書いてあれば当然男性と思われても仕方ない、と諦めた経緯も確認。

担当事務官の談話:オルガニストを依頼しても誰かが弾くから問題ないという回答のみで、音信不通状態は不安でしたね。オルガニストがどなたか判明したのは前日で高槻市ご出身、ご自身来独直後の三森さんでした!

政策への提言その1:待てば海路の日和あり

▽ アンナベルグの問題:ブロイティガム氏の新作とご本人の体調への懸念、KMDの肩書きのあるドレックスラー氏が未知の人物であるということ。

ブロイティガム氏の新作については、好意で申し出のあった新作でもあり、心情的には催促するのが憚られた。しかし、横浜公演を1ヵ月後に控えた2002年6月、既存の作品到着。ハレルヤ、と歓喜の声があがる。

担当事務官の談話:例の新作は未完の状態で、ブロイティガム氏別荘にある1700年代の物入れの上に保管してあります。初演はいずれ横浜合唱協会が行なって欲しい、と作曲家ブロイティガム氏も切望されています。

政策への提言その2:桃栗三年柿八年の気持ちで待ちましょう

KMDとはKirchenmusikdirektor教会音楽監督のことで、教会音楽に関しては代表格の立場であり多忙というのも納得。しかし、約10通の書簡に対して、回答は2通しか届かなかったのは、やはり不安の原因となった。

旧東独側が旧西独側に比べて失業率が高いことは周知の事実だが、その分忙しすぎる人がいるというのも政策に問題あり。YCS外務省担当事務官は、YCSで失業したらアンナベルグでのボランティア志望を考慮中とか。

政策への提言その3:しかし、案ずるより産むが易し

▽ 遠隔地通信会員ハーゲン氏所縁のタールビュルゲルも、折衝担当が教会の牧師ご夫妻となり、5年前にはバッハの新作発表に比類する間隔で取り交わされたメールも今回は約5分の1。ご子息がトマーナーとして日本公演の折、外務省担当事務官在住の鎌倉を訪問した話題から、親近感が増し、以後メールの回数も増加した。

政策への提言その4:瓢箪から独楽、本題からそれることも大切

担当事務官の談話:ハーゲンさんはやっぱりあの寡黙なハーゲンさんでした。ブラウマンさんはやっぱりあの青年風少年でした。二人とも要所、要所に現れてくれて本当にありがとう。

▽ 現地にて、担当事務官はライプツィッヒのケーキ外交、アンナベルグのキッチン外交、ビュルゲルの旧交を温めての外交を実施。これらがいかなる外交なのかは、知る由もない。

▽ さて帰国後、担当事務官の机上は再びFAXやメールなど様々な文書で溢れつつあるが、それがなんとも楽しみらしい。何年後かにありうるかもしれない第3次演奏旅行の礎石になるようにと、思いを込めて礼状をしたためている様子が見られる。

担当事務官の談話:今はそれ所じゃないですよ。第3次演奏旅行よりも2004年3月21日が先決です。

以上、YCS外務省担当事務官とのインタービューより
齋藤美沙子 記

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