Yokohama Choral Society
-横浜合唱協会-

2002年ドイツ旅行記念誌Web版第6章

都邑(まち)・人・思い出

ライプチヒ 〜トーマス教会の祈り〜

松本惠太郎

ライプツィヒは、バッハ所縁の地として私にとっては憧れの町です。5年前は同行出来なかった為、今回の旅は東ドイツ時代の最後の年('89年)に訪問して以来13年目の再訪となり、体制が変って美しく賑わっている街並みには目を見張りました。

そのバッハの眠るトーマス教会の聖堂で、トマーナChorに代わってバッハを歌わせて戴くと言う機会が与えられたと云うことは、バッハを歌う喜びを基本にしている合唱団の私達にとって大変な快挙であり、言葉に尽せない重い意味があると考えます。このようなイベントに参加させて戴けたことは人生最高の喜びであり、合唱をやっていて良かったとの思いが込み上げ、この恵みを心より感謝している次第です。

トーマス教会での演奏は、8月10日(土) のモテットの夕べと、11日(日) の礼拝式の中で歌わせて戴きましたが、特に礼拝式は心に残るものでした。

私達は日頃これらの合唱曲を、芸術的作品として捉え、その音楽性を追求し、完成度を高める事によって、その曲に込められた作曲者の思いを汲み取り共感しています。宗教曲とはいえ、通常これを『音楽』の範疇として捉えていると思います。しかしこの礼拝式に於いて、正にその聖堂の響き(オルガン、合唱、聖書朗読と牧師の説教、それに会衆の応唱)すべての中から音楽的芸術性と共にこれを超えた霊性を感ずることが出来ました。会場全体が音楽によって祈っていることが歌っている私達に伝わってきた、と言うのが正しい感覚かもしれません。私も日本の教会で聖歌に携わっておりますが、聖書の言葉とその音楽に依って祈る教会音楽の心をこのライプツィヒで学ぶことが出来たことは大きい糧となりました。バッハの時代、いやそれよりずっと以前から育まれてきた教会音楽の財産を大切にし、それらの曲を通じて更なる霊性を受けられるよう今後とも努力して行きたいと思っています。

アルテンブルクのオルガンを聴いて

藤井 可奈子

“あのJ.S.バッハが鑑定をした” というオルガンで、休館日にもかかわらずフリードリヒさんが私達のためにわざわざ演奏会を開いて下さるという事だったので、私はこの日をすごく楽しみにしていた。ここのオルガンは当時宮廷お墨付きのオルガン製作者であったトローストが、元々あったオルガンの改築を頼まれて改修し、それ以降 “ドイツで最も素晴らしいオルガン” として有名になったものである。そのオルガンの特徴は何と言っても音色を変えるストップにあるらしい・・・。そんな訳でワクワクしながら教会の中に足を踏み入れると、まず教会内部の非常に細かく美しい彫刻等による装飾とその豪華さに圧倒され、さらにオルガンを真正面から見て実際にその音を聴いた時、オルガンのまわりに施された装飾の美しさに目を奪われた。だがそれ以上にそのオルガンから流れ出てくる音楽に心を奪われた。何と言っても音量の幅と音色が豊富で、今聴いている音全てが一つの楽器から出てくるとは思えない程の変化だった。特にバッハの愛弟子の一人で25年間アルテンブルクの宮廷オルガニストを務めたクレープスによる曲は、このオルガンの特質を存分に生かしていて、非常に魅了された。私はこのような貴重な体験ができたことに心から感謝している。

ツヴィッカウの思い出

友田 奈緒美・晃利

8/12、ツヴィッカウでは冷たい雨が降っていました。旧市街へ入る道を探しバスがリングをぐるぐる回りましたが、なんとかイタリアンレストランに到着することが出来ました。

おいしい(本当に)パスタとお肉の料理をいただいた後、帰り際、さすがはイタリア人(多分)、ドイツでも陽気に、楊子のことを構ってくれました。最後には抱っこしてもらい、楊子も店員さんも大喜び、見事な国際交流でした。

さて、その後みんなで雨の中シューマンの生家(博物館)まで歩いていきました。途中広場で見覚えの有るシューマン像がありみんな像をバックに写真を撮りましたが、とにかく寒い!。その後急ぎ足で生家まで行きました。

玄関を入って右手のホールで館員の方から簡単な説明を聞いてから、2階の展示室の見学開始。たくさんの少女のようなクララの肖像画、さらに貴重な写真まで飾ってありました。(注。妻はクララが大好きなのです)

奥の部屋には当時のピアノが飾ってあり、館員の方がトロイメライを弾いてくれました。昔懐かしいような(知っているわけではありませんが)やさしい音色でした。

普段は弾かせてもらえないのですが、今回は特別に淑子ちゃんが弾かせてもらえることが出来ました。突然で、しかも周りをみんなに囲まれて緊張したでしょうが、しっかり弾けましたね。きっと良い思いでになったのでは。

これまで耳と楽譜からしか触れることのなかったシューマンの生まれた場所でシューマンと同じ空気を吸い、実物を見、触れることができ、素敵な時間を過ごすことができました。 その後移動時に川が氾濫しかけていたり、橋が崩れていたりと、振り返ってみると危機一髪の状況だったように思いますが、辿りつけて本当に良かった。

(奈緒美記、晃利大幅脚色)

プラウエン(Plauen)を少々

大石 康夫

今回の演奏旅行でもオプショナルツアーを担当することになり、早速ルートを考え始めていた。演奏会は3カ所、練習することを考えれば観光する余裕は余りない。せいぜい次の演奏地へ移動する日を充実したものにする必要があると感じた。もう一つは2つ目の演奏地がチェコに近いことから、何とかチェコに立ち寄ろうと思った。チェコには別の思い入れもあったのだが。

そこで考えたのが、ライプツィヒからアウトバーンで南に下り、適当なところでチェコに入ってカルロヴィ・ヴァリを見て、アンナベルクへ行くコースだ(但し、このルートは最終的には変更になった)。しかし、途中見学するのがカルロヴィ・ヴァリだけでは物足りないのは確かで、他にないものかと、ドイツ語で書かれた「Bild atlas」という、写真の沢山掲載されているガイドブックを見ながら、ルートに比較的近い街を色々と模索していた。

そうしていたところ、Plauenの紹介に …Leipziger Thomaskirche… という文字が目に入ってきた。これは一体なんだ、ということになり読んでみると、聖トーマス教会にあった祭壇が1722年にここのルター教会に移されたとのことであった。でもそんな話は初めてだったので、にわかに信じ難く、真偽の程を確かめることにした。その資料として思い出したのが、1997年のドイツ演奏旅行に備えて、レクチャーで使用した「バッハ ゆかりの街を訪ねて」である。このライプツィヒの部分を読んでいたら、なんとそのことがしっかりと書かれているではないか。初めてと思った話も実は覚えていなかっただけの話で、というかその時も「へえ、そうなんだ」くらいは思ったかもしれないのだが……。とにかく間違いないことがわかり、これは是非見に行こうということになった。

ツヴィッカウから約1時間でプラウエンに到着し、ルター教会に向かったが、牧師さんが手を振って出迎えてくれた。この地は東西ドイツが分裂している頃は国境に近いこともあって、いろんな面で不当な扱いを受けたようだ。祭壇が何故ルター教会に移されることになったかについては、牧師さんの話にあったように、聖トーマス教会の祭壇を新しくすることになり、古いものを屋根裏に寝かせたままにしておくよりは、ということだった。だがその祭壇は今でも十分に役を担っているのであり、聖トーマス教会が当時から「受難」をテーマとした祭壇を飾っていたことも見知ることができた。

また一つ、一般の観光ツアーでは決して味わえない体験ができたと自負するものである。

アンナベルクにて

志村 知子

雨の中到着したアンナベルクは、静かなたたずまいの落ち着いた町でした。大雨の影響でバスが迂回し、乗り継ぎの際にはぐれたスーツーケースも未だ届かず、少し心ぼそいなかでの到着でした。翌日も雨。ホテル前の広場を過ぎ、坂道を登ってゆくと、そこに大きな教会がありました。アンネン教会です。正面の石組みが印象的でした。どうやってあんなふうに作るのでしょうか。教会の中はとても広々としていました。左翼のステンドグラスの色の組み合せがとても美しく、しばらくのあいだ、その美しい色の淡い光に見とれていました。教会の説明をしてくださった方の「封建主義がない町、自由な町」という言葉が心に残りました。教会をひととおり見た後、真夏とは思えない寒さに、まずは暖かい服を、と坂道の一番下にあったお店に入りました。そこで紺色の薄いコートを買いました。飯島さんも色違いのベージュを買って、「お揃い!」と浮かれて歩いていたところ、その後4人の方々も続々購入し、「6人でお揃い!」という楽しいことになりました。やっと一心地つき、「本来の」お買物活動を開始しました。どのお店にも魅力的な工芸品があり、困ってしまいましたが、私は自分のお土産として木彫りの「花売り娘」のセットを買いました。お人形はもちろん、並べられている鉢植えのお花の数々もすべて細かい手彫りで、彩色も微妙な色あいでとても愛らしいものです。今は私の部屋に飾ってありますが、見るたびに、雨に濡れた石畳みの静かな町の風情を思い出します。

残響に戸惑った教会での練習のこと、場所を変えておこなった八尋先生の特別発声練習のなかでの「声よりも耳ですよ」というお言葉、演奏会本番のこと、ブロイティガムさんのオルガン演奏のこといろいろ書きたいことはありますが、あとひとつだけ、とても楽しく不思議な時間を過ごしたことを書いておきたいと思います。

ブロイティガムさん自ら運転(ジェットコースター並みのスピード!)する車で、ブロイティガムさんのおうち(別荘)を訪ねました。八尋先生と斎藤さんと大杉さんと一緒です。八尋先生を夕食にお招きしたい、とのブロイティガムさんのご好意に私たちもご一緒させていただいたのです。“アルプスの少女ハイジ”に出てくるような、小さな山小屋風のおうちにテーブルといすと大きな薪ストーブ、そしてお人形や木彫りの小物などがさり気なく飾られているだけの、本当に簡素なお部屋でした。でも冷たい感じはまったくせず、かえってブロイティガムさんの内面の高潔さや純粋さや誠実さ音楽(芸術)に対する真剣さ、暖かさを感じることができました。

食事はすべて手作り。ブロイティガムさんの身振り手振りと斎藤さんの通訳に従い、じゃがいもを茹で、アボガドをむき賽の目に切り、トマトも適当な大きさに切り、パセリを洗い、バジルやローズマリーをちぎり、泥のいっぱいついた見たことのないきのこを洗って下茹でし、そして、茹であがったじゅがいもの皮をあちちと言いながらむき、サラミを薄切りにして炒め…。だんだんと様子が見えてきました。八尋先生は撮影係ならびにじゃがいもの皮むきのご担当です。できた料理は「アボガドとトマトとチーズのサラダ ハーブとオリーブオイル風味」「じゃがいもとサラミのきのこソース和え」。みんなで作ったあつあつのお料理を大皿に盛り、おいしいワインとともにいただきました。味も申し分ありませんでしたが、みんなでわいわい作る過程が楽しく、寒さも忘れて夢中でした。食事の後は、古くなったスキー板や木切れや大工道具でいっぱいの物置部屋や二階の寝室を見せていただいたり、たんすの上に書きかけの楽譜が無造作に置いてあるのに驚いたり…。本当に楽しく穏やかな時間を過ごしました。ブロイティガムさんの運転は、帰りもやっぱり猛スピードでしたが、心とおなかが大満足で、今度はあまり怖さを感じませんでした。

スーツケースとも無事再会を果たし、アンナベルクへ着いたときの、ちょっぴり不安な気持ちはすっかり消え、私はこの町を訪ねることができて本当によかった、と思いました。ブロイティガムさん、本当にありがとうございました。そしてブロイティガムさんとの縁をつくってくださった八尋先生とビラーさんに心から感謝します。

タールビュルゲル

日沖 憲司・村木 誠一郎

・畑の匂い

朝の散歩で歩いていると・・む!この匂いは!まさにそれこそ天然“優良”肥料(笑)の匂いである。それだけ自然にやさしいって事かも?さぞかし安全品質(主婦の味方!)で美味しい食べものができる事だろう。大地の恵みに感謝!

・お年よりの道案内

ビュルゲルで地図を見ていると、お年寄りの方が親切にクロスター教会への道のりを教えてくださる。(田舎の人は親切だなぁ)しかし、内容もよくわからない上に、誤解であるということも伝えられない。結局お礼を言って、教会へ行くようなそぶりを見せてお年寄りに気を使うが、何だかむなしい。(独検3級程度の能力は付けたいものだ)

・なめくじ

とにかく大きくてグロテスク!そこら中で彼奴ら死骸を発見。人々にとって便利な車も彼奴らにとっては殺戮兵器なのだろう……。哀愁と共に命の尊さを再・発・見。

・星

東京の環境がいかに破壊されているかということを再認識した。その意味ではタールビュルゲルはどこへ行っても上を向けばデートスポット・・・・なんちゃって(笑)。お台場のカップルはこんなきれいな空も見えないところで果たして楽しいのだろうか。

・ビュルゲル焼

テレビの前の奥さん!お友達に自慢の料理を出すときにもう一つインパクトを与えたいなんてお思いですか?そーんなあなたに今回紹介致しますのがドイツ、ビュルゲル生まれのこの商品!なにしろ手作りですから、村の人々の暖かさに触れることができます。染料も天然仕様ですから、小さいお子様にも安心の食器です!今すぐ欲しい方はすぐにお電話を!24時間受付しております!

・バス

本数が少ない(通勤・通学用以外はかなり少ない)。イエナに出かけた時思ったことであるが、もし乗り遅れたら車のない我々は即、タクシー!?やっぱり田舎町には車が必需品である。

ホームステイ

鈴木希枝

場所:タールビュルゲルとイエナ

日程:8月15日〜18日

ホストマザー:ヘルガ ドラーフェンさん

泊まった人:こみ、きえ

1日目: バスを降りてキョロキョロしてたらヘルガさんに出会えてしまい、すぐ公民館へ。お互いに緊張気味の夕食。こまごまと買ったおみやげに助けられる。

2日目: 朝はいろいろな博物館見学。とても興味深いものばかりで、おもしろかった!昼の練習後にイエナのヘルガさん宅へ。陶器やアンティークがイッパイ!家族への愛を感じるお部屋。この日から辞書登場!夕食の会話は充実!?佐々木さんに大感謝です!!独立されたお子さんたちの部屋で就寝。

3日目: 朝はイエナで教会と土曜市を見学。タールビュルゲルに戻って練習。コンサート前みんなが食べた軽食はヘルガさん作。だからかんばって食べて本番もガンバル。打ち合げは一緒に参加。ビールたくさん飲んでて楽しそうにしてくれてヨカッタ!

4日目: 最終日だというのにウルルン場面もなく迎えの車にのってしまうことになり、バスの中からお別れ。

感 想: ヘルガさんはお料理上手! 「おいしいっ!」を何回言ったことでしょう! あとはドイツのお母さんはタフ。たくましくてカッコイイ。

反 省: 言葉のできなさに尽きます。もっときいてみたいことがたくさんあったのに。次回は”指さし会話帳”からの卒業をめざしマス。

 考えることや発見がたくさんあって貴重な体験でした。今回のホームステイをアレンジしてくださったり、途中心配して下さったり励ましてくださったりしたいろいろな方に感謝します。そしてなによりヘルガさんにありがとう!!!

〜幻想〜 プラハ

大石 康夫

ドイツに旅立つ前はプラハの気温が話題になるほどだったのだが、まさかその後予想だにしないことがおころうとは。

今回のドイツ演奏旅行誌の中で私がプラハを書くきっかけになったのは、いうまでもなく演奏旅行を前に行っていたレクチャーでプラハの紹介をすることになったからである。ただそうは言っても当初は簡単な紹介で済まそうとしたのだが、ある本を読んでいるうちに、それがそれで済みそうになくなったというか、プラハを含むボヘミアの地に音楽に関わる歴史的なできごとが秘められているのを知るところとなり、ついつい力が入ってしまった。どうもそのことがご指名につながったようだ。 その詳細は2002年7月発行の『第2次ドイツ演奏旅行ガイド』の通りだが、それにしてもやむを得ずボヘミアの地を離れて活躍せざるを得なかった優秀な音楽家、しかも名前もチェコ式ではなく、活躍した異郷の地での名前を使うことになった音楽家が如何に多かったことか。

バロックから古典派、初期ロマン派に至る約200年の間、ボヘミアでは本来であればもっともっと素晴らしく盛んになるはずだった音楽が、ハプスブルク家の台頭によって寸断され、他国に遅れをとってしまった。ウィーンと違ってモーツァルトの音楽に最後まで熱中したボヘミア人、おそらく彼らは自らの気質と相まって、個性ある素晴らしい音楽をこの時代に残したに違いない。そう考えると実に残念でならない。

その音楽の原点の一つであったプラハを訪ねることは実に楽しみであった。彼らはどのような思いでこの地を去って行ったのだろう。そんなことに思いを馳せながらプラハを歩いてみたかった。

ところが、ドイツに着くと同時に、洪水のニュースが次第に大きく取り上げられるようになる。最初はバイエルン地方とか、オーストリアなど、プラハとは関係ないようだったが、その内、ドレスデンのツヴィンガー宮殿の浸水やプラハのカレル橋の架かる川の水位がニュースのたびに上がっていくのを見て、ただならぬ気配を感じたのである。そしてとうとう「世紀の大洪水」、「100年に一度の大洪水」と、報道されるようになり、深刻さを増していった。あとは皆さんご存じの通りである。

今回はプラハに足を踏み入れることができず、本当に残念であったが、「楽しみはあとに取っておくほどいい」という言葉に慰められながら、次の機会を待ちたい。

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