Yokohama Choral Society
-横浜合唱協会-

2000年30周年記念誌web版

IV. 演奏会を振り返って −第40回から第45回まで−

第40回定期演奏会(1996年2月)

ヨハネ受難曲を歌って

松本 惠太郎

私は職場の合唱団にずいぶん永くおり、そこでは偶々当時としては珍しかったのですが、ご指導の先生の影響もあってルネッサンスのア・カペラ曲をよく歌っていました。またカトリック教会に所属しているため日頃の典礼に於ける実践の立場から今も日本の教会音楽に取り組んでおります。

カトリック教会は、音楽と祈りは深い繋がりを持っており、特にカトリック教会では神の言葉を深く味わう手段として歌によって祈る習慣があります。ラテン語の聖句には必ずメロディーがつけられており(これらを後に集大成したものがグレゴリオ聖歌)、ある旋律はある祈りを表す形式が整い、これらはその後のミサや儀式のなかに取り入れられるようになりました。教会では「良く歌う者は良く祈る者である」と云われているほどです。(巧く歌えるとは一寸違うのですが・・・)

また、聖書の中でキリストの受難から復活にかけての部分の意味するところは、キリスト者の信仰の中心であり、古くから信徒の儀式の中で語り告げられ、物語りとして劇化され、今日まで多くの作品が作られているのはご承知のとおりです。特に福音書の中でもヨハネによる叙述は、キリストの教えの真髄である慈愛について、イエスの行為・実践を通しての物語りとして詳しく記されており、全人類を救う神の計画を理解し得ず、イエスを当時ユダヤ教の律法に反する者として十字架につけてしまった過程が劇的に述べられています。

これをテキストとして作曲されたバッハの受難曲は、緻密な計算されたその構成により、まさにこれを完璧に表現し尽くしており、私たちを心から魅了、感動させてくれます。

マタイと共に並び評されるこの名曲をいつかは歌いたいものと思っておりましたところ、職場コーラスでご一緒していた入沢さんのご紹介により、共に歌わせて戴く機会を得ました。合唱協会のコンセプトは私の気持ちにピッタリで、よい合唱団に入らせて戴いたことを大変感謝致しております。

しかし曲は、聴くと歌うでは大違い。大変な難曲で足を引っ張らないようについて行くのが精一杯でした。長いコースを走る中で、その局面に直面する都度、先生の指示で左右にハンドルを切り、ブレーキ、アクセルを踏むような状況で、全体行程や景色を見ている余裕などありませんでした。(後でテープを聴き曲の仕上がりの全貌をやっと把握しました)ただ、ビラー先生の曲作りは印象的で、随所に、<センチメンタルになるな>、<ダイナミックに>、<踊りのリズムで>、<鬼のように歯を見せて>などと指示が飛び、このバロックの曲に、今私たちの心に生きている音楽としての息吹を与えて下さいました。

宗教音楽はとかく抹香臭くなりがちで、表情を出しにくいのですが、歌った時の感動が心の深い部分に残るような生きた音楽作りが出来るよう努力しつつ、その後も合唱協会の一員として歌わせて戴いております。

(会員)

第41回定期演奏会(1996年10月)

地味だけど、味のある−第41回定期演奏会−

古宮 真紀子

1996年2月中旬。「これが通れば晴れて卒業」という卒業論文を落とし、就職先が決まっていたにもかかわらず留年せざるを得ないという状況に追い込まれ、さすがに食欲減退の1週間を送っていたちょうどその頃、当時まだ所属していた早稲田大学混声合唱団(早混)の部室で「横浜合唱協会 第40回定期演奏会」の案内ハガキを目にした。

以前から合唱協会の存在は知るところではあり、演奏会を聴きに行きたいと思いながらもなかなかそのチャンスに恵まれなかったのだったが、このときはこれ幸い、気晴らしにと思い、一人てくてく紅葉坂へと足を運んだ。その日、「ヨハネ受難曲」の演奏を聴き、さらに終演後、ビラーさんと八尋先生が舞台で握手される姿を見て(笑)、「同期のみんなが卒業した後、一人早混に残って歌いつづけるより、合唱協会に入って歌ってみたい」と(いささかミーハーな要素も含まれないこともなかったが…)決意を固め、アンケートの入会案内希望に○をつけて会場を後にした。

そうして練習の案内を送っていただき、初めて練習に参加したのが1996年5月。

その日は男声と女声とに分かれての練習で、吉野町プラザでの松尾先生の練習に参加させていただいた。南太田駅から道に迷って30分ほど遅刻してしまい、おそるおそる会場に入った。「最初だから隅っこでひっそり見学しよう」くらいに思っていたのに、楽譜を渡された後、いきなり前列の真中近くに席を指定され、びっくり。「えっ、もしかして、もう入会しなきゃいけないの?おためし期間なし?どうしよう、私一人群を抜いて下手だったら恥ずかしいし、雰囲気があわなくて歌いにくいかもしれないし、うわぁ…」と不安におそわれたが、結局それは要らぬ心配だった。その日はJohann Michael Bachの「Sei, lieber Tag, willkommen」の練習だったように憶えているが、周りの方と声をそろえて歌うのも、女声が3部に分かれて歌うのも気持ちよく、練習が終わる頃にはすっかり違和感なく歌えるようになっており、迷わず即日、入会を決めた。

今思うと、第40回「ヨハネ受難曲」と1997年のドイツ演奏旅行にはさまれた、第41回「ア・カペラの響き−バッハファミリーとその先輩、後輩たち−」というテーマの曲目は、ちょっぴり地味な(マニアックな?)ものだったかもしれない。だが、この時から練習に参加するようになった私にとっては、純粋に、周りの人の声を聴き、あわせて歌うことの楽しみを感じることのできる練習となり、とても充実したものだった。もとより、それまで高校から大学の7年間をアルトで歌いつづけていたのに、松尾先生に「あなたソプラノね〜」とソプラノ行きを宣告され、なれないパートで歌うのに必死だったという話もあるが…。

入会して4年と少し。今では(出来不出来は目をつぶっていただくとして)ソプラノで歌うことにもなれてきた。最近、演奏会ではオーケストラ伴奏付きの曲目が続いていたが、初めて合唱協会の練習に参加した頃の、あのア・カペラで歌う充実感を、またじっくりかみしめてみたいと思っている。

(会員)

第42回定期演奏会(1997年 7月)

第42回「ドイツ演奏旅行」を振り返って

梅津 美可

私が横浜合唱協会に入会したのは1996年11月、まさにドイツ演奏旅行の練習初日でした。学生時代に八尋先生の特別講義で合唱の指導を何度かうけて先生のもとで宗教音楽を歌ってみたいと入会しました。

実はそれまで1度も横浜合唱協会の演奏を聴いたことがありませんでした。会の歴史も規模も何も知らず、当然ドイツ演奏旅行のこともまったく知らずに会に飛び込みました。そしていただいた楽譜を見てあれれ?!歌ってみてもっとびっくり「バン バラン バン バラン(ツァ)(ツァ)♪」これは・・・?考えていたイメージと違う、確かバッハを中心に歌っていると聴いていたのにどうなっているのか訳もわからずその日の練習を終えました。あとからドイツ演奏旅行のことを聞き、そのために合唱協会でも始めての日本の曲(間宮先生の合唱のためのコンポジション)を練習していくことをしりました。入会して9ヶ月後にいきなりドイツとは、内心どうしようと二の足ふみましたがものすごいパワーでどんどん引っ張られて気が付いた時はライプツィヒの空の下でした。

東ドイツだったライプチッヒは東西統一の影響なのか街の異たる所で修復工事の真っ只中、聖トーマス教会も例外ではありませんでした。しかし外の喧騒とはうらはらに一歩教会の中に入ると静寂で厳かな空間がひろがっていました。その中でバッハから数えて16代目のトーマス・カントルであるビラーさんの指揮で、モテット「主にむかいて新しき歌をうたえ」を歌えると言う事はなんと素晴らしいことなのかと初めて実感しました。多くの人達の努力、奮闘のおかげでこの聖トーマス教会に立つチャンスが与えられました。神にもっとも近い場所で、バッハの時代そのままの中で歌えた時、西洋音楽の持つ響きの美しさの原点が、ここにあることをあらためて感じました。本当に素晴らしい経験でした。

ドイツ演奏旅行のもうひとつの目的であるタールビュルゲル・クロスター教会での夏の音楽祭は、満員の聴衆の前、揃いのはっぴで日本の歌を高らかに歌いました。入会当時とまどいながら歌っていたコンポジションや荒城の月などの日本抒情歌曲を歌った時のあの満足感、ドイツの方々にどこまで日本の心を伝えることができたかは解かりませんが、誇らしい気持ちで思いっきり歌うことが出来ました。

そのあと開かれたドイツの方々との打ち上げの楽しかったことや、街灯のひとつもない月あかりの夜道の幻想的だったこと、観光では絶対に味わうことの出来ないことの連続でした。合唱協会長年の夢だったドイツ演奏旅行に思いもかけず参加できたことは本当に幸運でした。この思い出は私にとって大切な宝物のひとつになりました。

(会員)

第43回定期演奏会(1998年4月)

YCSとフォーレ

山田 都

私が合唱協会に入ったのは1993年の11/13でした。すぐ前の11/7にフェリスの37回定演を聴きに行ってもらった団員募集のチラシにソプラノ求むと書いてあったからでした。(どこの団もソプラノ余ってるのに珍しい・・・と思いつつ)そして、その年の暮れにうっかり総会なるものに出席したのが運の尽きでした。ちょっと調子に乗って話したためしっかり企画のメンバーに組み込まれてしまいました。

それから3年後の43回定演の曲を決める時、雀部さんが持ってきた案はビバルディのGloriaとCredoでした。でもそのプリントにはもう一つフォーレレクイエムも書いてありました。雀部「これは冗談で書いてみた。」山田「本当に冗談ですか、やってみませんか」雀部「そりゃ僕も好きだけど・・・」山田「じゃやりましょうよ、きっとここの団だとうまくできると思いますよ」 こんなやりとりのあと43回定演はフォーレと決まったのです。でも団の人たちは「まさかYCSでフォーレをやるとは・・・」とか、「Bassはつまんない・・・」とか、いろんな声があって果たしてうまくいくか心配でした。みんなが楽しく練習が出来ないとしょうがないし…と思いつつ、初めてのプロデューサー(の手伝いぐらいだったけど)は何をしたらいいか雀部さんに聞きまくってました。男性のアヴェマリアの楽譜がいつまでも見つからず、芸大の学生だった吉村さんに頼んで大学で見つけてもらったりしました。

またラシーヌの雅歌はフランス語だったので特別に先生を頼んで練習したり発音練習テープを作ったりしました。それでもあの独特の発音はなかなか出来ませんでした。

(いつもドイツ語ばっかりだからドイツ訛のフランス語だったなんて言われてみたかった??? そんなこと言われるのは齋藤さんだけ!!)

その演奏会のオケは初めての東京クロイツ室内合奏団でした。とてもいい音でやってよかったなぁぁぁと実感しました。(東京クロイツ室内合奏団はまたの名を東京バッハ・カンタータ・アンサンブルといいます。)

YCSの演奏会はいつも(マニアな)男性の聴衆が多いと思ってましたが、このときは女性のお客さんが目立った気がしました。演奏会のできはきっといつも通りまぁまぁだったと思います。

でも一番印象に残っているのは、演奏会のあと、次のクリスマスオラトリオの練習が始まり、ソプラノがパートソロのコラール旋律をやってたときのことです。1フレーズ歌ったら八尋先生が突然「フォーレやってよかったですね。」とにこにこしながらおっしゃったのです。感激でした。・・・・

でもこれにはオチがあってそれから2年後の今年の夏、必死になってバッハのモテットを歌っていたら八尋先生がまた微笑まれながら「フォーレの終わったあとの声を思い出してください。あの時はよかったですよ」とおっしゃったのです。うっ、そういえばあのころの余裕というか声のまとまりがないなぁ。うーん、どうしたもんか…

でも少し意識するだけで違ったのか「少し思い出しましたね。」と言われたのでほっとしました。

これからも色々な曲が歌えそうで楽しみです。きっとまたプロデューサーが回ってくるかもしれないけどその時は「世代交代」とかいって若いのにまわしちゃお。(雀部団長怒らないで!)

(会員)

第44回定期演奏会(1999年1月)

正月のクリスマス

平井 一

離れてわかる有り難さというものでしょうか。大学卒業以来3年,歌うこととは縁遠く過ごしてきた私にとって,久しぶりの舞台となったあの真冬のクリスマスオラトリオ演奏会と,それに至るまでの練習の日々は,今振り返っても全く夢の中の出来事のように感じられます。夢のようだというのも,大学時代に何度も触れたバッハの音楽に再び接することができるようになるうれしさがあり,また生まれ育った土地で歌うことのできる喜びがあったからです。

私がYCSの練習を初めて見学した(と同時に参加したのですが)のは,クリスマスオラトリオの練習からでしたが,YCSを初めて知ったのは,前年のフォーレ・レクイエムの演奏会の時にさかのぼります。よく覚えているのは,演奏もさることながら,演奏会後の打ち上げ会場に向かう楽しそうなみなさんの姿です。その時のわたしは,この合唱団の,なにかあたたかい空気を感じました。

その後,自身も念願かなって合唱を再開できるようになり,YCSに入ったのは平成10年9月のことです。すでにクリスマスオラトリオの練習も半ばにさしかかった時期でもあり,厚さが1センチ以上もある楽譜を手にしたときは,果たして練習に追いつき,そしてついていけるのか不安になりました。しかし,練習の雰囲気に慣れてくるのにしたがって,歌声の中に身を置くことがなによりも心地よく感じられるようになり,加えて練習後のお酒のおいしさもあって,気がついたときには,毎週,土曜日の午後からなにやら気持ちがソワソワするようなっていました。

年もあらたまり,平成11年1月17日,いよいよ演奏会の当日。海がすぐそばだというのに,空気の乾いた寒い日でした。楽屋口からホールに入り,シャツの腕まくりをして,まだ新しい感じのする楽屋や舞台袖を歩き回るうちに,客席で開演を待つのとはまた違う,静かな昂揚感が湧いてきました。

そして開演時刻。今見ると少々不恰好なのですが,インデックスシールをずらりと並べたあの分厚い楽譜を左手に持ち,まだほのかに生木の香のする山台の上へ。定位置につくと客席を見通しましたが,知っている顔を探すほどの余裕も,あの時の私にはまだありません。「ライトが熱いな・・・」そんなことを考えているうちに八尋先生が指揮台に。

その後の記憶が,なぜかおぼつきません。ただ,何度も吹き鳴らされるトランペットの響きがまさに輝かしかったこと,それから,最後のコラールを歌いつつも,全曲を締めくくる実感が湧かなかったことを記憶しています。

いま振り返ると,初めての演奏会でクリスマスの出来事を歌えたことは,幸せなことだったと思います。

「神の御許に住処を得たのです。すべての人は。」最後のコラールがあっという間に過ぎてしまったのも,その後の物語をこれからも歌い続けなさいと言われているからだと勝手に解釈しています。そういった意味で,私にとってクリスマスオラトリオの演奏は,再び合唱と出会った,記念すべき出来事となりました。

(会員)

第45回定期演奏会(1999年11月)

念願かなって J.D.ゼレンカ

大石 康夫

ある時、偶然手にした一枚のCD。そこにはヤン・ディスマス・ゼレンカ(Jan Dismas Zelenka)、ミサ曲「ミサ・ヴォティヴァ(Missa Votiva ZWV18)」とあった。この曲がゼレンカという作曲家に興味を持つきっかけとなっただけでなく、演奏会で唱うことにもなったのだから何とも嬉しい限りである。もっともそれまでに7年の歳月が流れていたが、とにかく一度でいいから唱いたかったし、もし彼の曲を唱うとすれば横浜合唱協会でも最初で最後との思いで望んだ。当協会に入会して以来一番強く感じたときでもある。パレストリーナ、シュッツ、モンテヴェルディ、ヘンデル、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン‥‥など今日よく知られた作曲家の作品の中にも唱いたい曲はたくさんあるが、それらは機会があればまた唱うこともできる。だが少なくとも国内ではその名も殆ど知られていないゼレンカはそういうわけにはいかない。私自身が意を強くしている間にやらなければならない、逃したくないチャンスだったのである。

ではそこまで私を駆り立てたものは一体何だったのか。それは単なる物珍しさや興味本位からではなく、それまで聴いていた色々な作曲家の作品の中で「いい曲」と感じたからだ。私はある時ふと思った。私も勿論J.S.バッハが一番いいと思っている一人だが、それを確信する上でも本当にそうなのか、バロック時代に生きたバッハ以外の作曲家は本当にこれだけなのか、作品は他にないのかと。バッハ自身も一時期にせよ世間一般から忘れ去られていたし(モーツァルトやベートーヴェンはバッハの曲をしっかりと勉強していたが)、名前だけが残っているだけで作品が埋もれていることだって考えられる。私も彼の名前を知らなかったわけではない。宗教曲も当時一度だけだが聴いたことがある。1992年草津夏期国際音楽祭で「レクイエム ニ長調 ZWV43」が世界初演された時だ(そういえば入澤ご夫妻も参加していた)。この曲も印象的だった。フランスのジャン・ジル(Jean Gilles)のレクイエム或いはジャンルは違うがバッハのクリスマス・オラトリオと同様、曲の初めに太鼓が鳴り響くのである。それはともかくこの後「いい曲」と出会うことになる。

それにしても今思えばよくぞこの曲を演奏会で取り上げていただいた。改めて感謝する次第である。そして特に嬉しかったことが二つある。一つはゼレンカを唱うために入会した人がいるということ。渡邊 成君である。何でも学生時代に友人がゼレンカの宗教曲に関する卒論を小林義武(新バッハ全集を手掛けている人でもある)さんのもとで書いたこともあって彼も興味を持ったとのことで、それまで孤軍奮闘とは言わないまでも一人で意気込んでいたようなところもあった私は、おそらく私よりもずっとずっとゼレンカを知っている彼を心強く思ったものだ。もう一つはゼレンカの曲と知って聴きに来ていただいた方があり、「音楽の友」にその批評が載ったことである。

また、いつの日か「いい曲」に出会えることを期待し、機会があれば唱ってみたいものだ。

(会員)

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