Yokohama Choral Society
-横浜合唱協会-

2000年30周年記念誌web版

III. 祝30周年

〜海外からのメッセージ〜

 

横浜合唱協会30周年を記念して、八尋先生と合唱団の皆様にご挨拶をさせていただきます。

皆さん一人一人が、とても熱心に取り組んでいらっしゃるその結果、アンサンブルが発展し、それがさらに進歩していくことを信じています。また皆さんそれぞれが楽しんで合唱をしていらっしゃることもよく知っています。それは将来もずっと横浜合唱協会が成長を続け、合唱団が存続することを意味すると思います。

30周年のお祝いを申し上げるとともに、これからもずっと音楽を楽しんで下さるよう心から願っています。

友情に感謝しつつ
ウルフディートリッヒ ブラウマン
('91.9〜'92.2)

(齋藤訳)

(原文)

 

多すぎるほどの音符 — 横浜にバッハが30年

 

本当は30歳になるからといって、それは大騒ぎするようなことではない。これからはひたすら人生下り坂、花盛りの時期は過ぎてしまったし、これからは太るばかり、髪の毛も白くなるばかり。こんな30歳の誕生日には隠れてしまう人もいるだろうし、ウィスキーのボトルに囲まれてお祝いをする人もいるだろう。中にはエッフェル塔からバンジージャンプをする人もいれば、エベレストに記念登山をする人もいるかもしれない。

しかし合唱団にとっての30年は、年を取ることを恐れている若者のそれとは違う。合唱団にとっての30年は短いもので、言ってみればこれで丁度おむつが取れたばかりくらいかもしれない。特にバッハを好んで歌っていて、その上時にトーマスカントルに指揮をお願いしたりしていれば尚更のこと。それにライプツィッヒだって50年ごとにしかお祝いをしない。大体合唱団というものは年をとるのだろうか、いや若いメンバーが増えて常に若返っている!その上歌う事は、特にバッハを歌う事は人の若さを保ってくれる。きっとホルモンの効果(h-Moll-Kininロ短調キニン効果)や物理的現象(例えば時間があっという間にすぎてしまう、Matth_uspassion-Dreistundenwieimflug-Zeitraffereffektマタイ受難曲3時間瞬間的時間短縮効果)が立証されているから明白だろう。演奏会のうち50%以上もバッハの音楽を振っている指揮者は、きっと今年250回をお祝いする事もできるだろうし、もしかすると、彼らは不滅かもしれない:バッハはまさに若返りの泉!(服用を間違えると、過剰ゲルマン愛好心と、Uh宇宙人や_h宇宙人を生み出してしまうので要注意)

さて横浜合唱協会が過ごした30年間には何が起こったのでしょう。合唱団が歌った音符は全部で15,372,569個、そのうち1.4%だけが高すぎたり、低すぎたり、全く間違っていたり。ほとんどが4分の4拍子、123デシベルは越えていない。歌うために横浜合唱協会が必要とした空気は1,324,631リットル、1,345 キロの楽譜が配布され、2,746メートルもステージを歩いて登場したり退場したり。よく考えてみると、聴衆の前で182時間歌うために4,234時間の練習が費やされ、延々と続く拍手を抜きにしても八尋先生はそのために 936,512小節も振っていただいた事になる。谷口先生は伴奏では、13,618,576もの鍵盤を動かしただろうし、その中でいくつかは何度も繰り返され、そのために費やした馬力はなんと75,883 PS。これは軽自動車などおよそ比較にならない馬力である。こういった数字はわかり易く述べただけで、味気ない数字ではあるが横浜合唱協会の30年を物語っていると思う。しかしそこに加えて、打ち上げや忘年会では6,895リットルものビールが飲まれた事も忘れてはならない。

さて、横浜合唱協会の皆さんにはこれから更に15,372,569の音符を歌って貰わなければならないし、ドイツのお客様に聴いていただく音の割合を0.068から0.136 %にアップして貰わねばならない。

ご成功をお祈りしています。

 

離れていてメールのやり取りだけの合唱団メンバー
  クリストフ ハーゲン
  ('93.9〜'94.11)

(齋藤訳)

(原文)

 

YCSの皆さんようこそ

 

コロラド州デンヴァーからごあいさつ申し上げます。横浜合唱協会30周年の機会に、皆様にごあいさつできるのは、大きな喜びです。鳥山さんからEメールで、私たちの米国での生活について書くようにとのご案内をいただいて大変嬉しく思いました。

まずはじめに申し上げたいのは、Kathyも私も、日本を非常になつかしく思い起こしているということです。日本の風景、香り、音、味覚などのそれぞれが、私たちを離れることはないでしょう。YCSの皆様が、私たちに接してくださった友情と親切のかずかずは、今後とも私たちの心に暖かく残ることでしょう。できれば、また横浜に戻って、いろいろな練習場所へ行き、一緒に歌い、あとの飲み会でさらに友情を深めたいと思うほどです。

Kathyと私は、Longmont Choral Societyという合唱団で、いくつかの演奏会に参加しました。ブラームスのドイツレクイエムなど大変きれいな曲もあって。楽しいものでしたが、やはりYCSと較べてしまって、不十分に感じる面もありました。一方、私たちのスケジュールもタイトになり、継続することが難しくなりました。

ここデンヴァーでは、いろいろと文化面での活動を楽しむことができます。今年は、Opera Coloradoでベートーヴェンのフィデリオを聴きました。米国内で広く知られたアマチュアオーケストラであるLongmont Symphonyの演奏会は、定期的に聴きに行っております。去年のクリスマスには、Boulder合唱団とSinfonia of Coloradoの演奏するヘンデルのメサイアを聴きました。これは、黙って聴いているのが苦痛でした。私たちは過去に何回かメサイアを歌っており、思わず一緒に歌ってしまいそうでした。今年は何とか参加したいと思っています。

去年のベートーヴェン誕生日のイベントでは、大変面白い経験をしました。みんな当時の衣装を着て、音楽や食事、飲み物、ダンスを楽しみました。今年はさらに多くの友人や家族が参加してほしいと思っています。デンヴァーには、ほかにも興味深いものが沢山ありますが、毎年夏にBoulderで上演されるシェークスピア劇もすばらしいものです。

日本で覚えた楽しみのひとつに温泉があります。コロラドは、すばらしい温泉を形成しやすい地質構造をもっています。Kathyと私は、気に入った天然温泉を3,4カ所見つけました。そのひとつは、山中の小川のほとりにあり、130度の熱湯が噴き出ています。

家族はみな元気にしております。Kathyと私は、それぞれ仕事をもっています。Kathyは、Safewayチェーン食料品店のマネジャーをしており、私は民間会社の事務所のマネジャーをしています。この会社では、娘のEllieも働いています。長女のBonnieは、日本で知り合ったオーストラリア男性と数年前に結婚し、現在はオーストラリアに住んでいます。Ellieの結婚相手も日本で知り合った男性でした。息子のJimmyは私たちと一緒に住んで、コロラドの女の子とデートを楽しんでいます。Hannahは19才になり、水泳や乗馬など、彼女のいろいろな活動の世話で、私たちも忙しい毎日です。私は、さらに学校で会計学の勉強をしています。

息子と、Ellieの夫がゴルフを始めたので、私のいとこも加えて、コロラドに沢山あるゴルフコースを楽しんでいます。皆さんの中で、もし、ゴルフやハイキング、山登りや、ここの大きなアウトドアライフを楽しみたい方がいれば、歓迎いたします。ほかに、温泉や山中の湖もあり、狩猟や釣り、また冬にはスキーもできます。私たちの家は、YCSのメンバーの方が、機会を作ってコロラドに来ていただければ、いつでも大歓迎です。

日本の大相撲も、相撲協会のwebsiteで見ています。ライブで見たいのは山々ですが、ここアメリカでは、毎日の結果を見るのが精一杯です。

このへんで、メッセージを終わりにしなければなりません。可能ならば、横浜へ行って、皆さんに個別にごあいさつし、一緒にお祝いをしたいところです。もし、神が許せば、いつの日か、私たちの思い出の多い日本に再び戻ることもできるでしょう。

ありがとうございました。

 

Jim & Kathy Switzer (YCSメンバー 1991/1995)

(鳥山訳)

(原文)

 

YCSのみなさん! おひさしぶりです。

 

長い間が過ぎましたが、お元気ですか。わたしと家族は元気で過ごしています。鳥山さんからYCSのことをずっと聞かせていただきまして、まるでいっしょに歌っていたような気持ちでした。このあいだ、YCSがもう三十周年になって記念の本を作ることにしたというメールをいただき、わたしにも作文の機会をくださったYCSのみなさんに感謝します。

1991年から韓国の大きい電子会社に勤め始めましたが、この会社では地域専門家という制度がありました。若者をある国へ派遣し、自分ですべての生活をすることによってその国の文化を学ぶことです。1993年、ようやくわたしにも日本で生活する機会が与えられました。韓国で男声合唱団で歌っていたわたしは日本で交流のある男声合唱団で歌うことができました。ですが、混声合唱のソプラノの歌声が好きだったので、鳥山さんの紹介でYCSに入団することになりました。YCSでの歌はわたしにとって衝撃でした。その時までのわたしの歌はオペラの主人公のような力強い発声でしたが、YCSの歌声は多少力の足りない、“つまらない”感じでした。その時までのわたしにとっては。そのうち、ドイツから来たHagenさんの隣で歌うことになって、少しずつヨーロッパの発声に関して考えるようになりました。やっぱり力ばかりではヨーロッパの歌を表現するのに問題がありました。特に、演奏会の時、教会で歌ってみたら、その差をはっきりわかるようになりました。いい響きさえあれば、そんなに力を入れなくても問題がないということ、歌う場所がいくら大きくても、奧まで伝わるということが理解できたのです。YCSはわたしに響きのことを教えてくれた先生だったのです。

YCSでの生活は歌だけではありませんでした。鳥山さんの外、いつもわたしの面倒を見てくださいました藤井さんと入沢さんご夫婦、お宅に招待し、日本の茶道を教えてくださったり、わたしのちょっとしたキムチ(韓国語で“   ”)をおいしく食べてくださったりした加藤さんとその若い友だち、アメリカ軍BASEにあるSWITZERさんのお宅でのハンバーガーPartyなどを思い出します。三鷹から横浜まで電車で通いながら練習に参加したことと、練習の後の飲み会でのハナシ、いつもの楽しみでした。静かな場所でのMusic Campと声楽の先生に受けたLessonも。

7年経ちましたから、みなさんの生活にもすこしの変化はあるだろうと思います。わたしにも勤め先の変化がありまして、1998年9月、さっき話しました大企業から出て、小さいベンチャー企業で働くことにしました。3人で始めましたが、今は10人になり、その中7人がEngineerです。通信関係製品の開発を目指しています。まだ成功とは言えませんが、いつか成功させると信じています。

みなさんも同じだと思っていますが、わたしも歌がなければ生きられません。ここで男声合唱団でバリトンとして歌っています。新しく出来た合唱団で、今年、創団記念演奏会を行いました。団員は約50名ですが、3分の1がプロという比率なので、結構いいサウンドを持っています。いつか機会があったら聞いていただけますでしょうか。

いつまでも友だちになれるみなさんといっしょに歌ったことがわたしには幸でした。これからもみなさんとの関係を続けていきたいと思います。

YCSのみなさんとご家族によろしくお願いします。

2000.9.17
 黄 民植(Minsik Hwang)
  ('93.5〜'93.12)

(原文:日本語)

 

雀部代表 草創期を語る

編集部なぜ旗揚げ公演は「マタイ」ではなく「ヨハネ」だったのですか?
雀 部当時バッハの受難曲を室内楽的に歌うというスタイルはまだ存在せず、「ヨハネ」ですら東京の大合唱団が100名を越える合唱で演奏していました。一方YCSの創立に参加したメンバーは40名あまりで「ヨハネ」でも単独で演奏するのは難しく、指揮者の奥田耕天先生の縁で、東京YMCAオラトリオソサエティの約30人の応援を得て、何とか演奏したというのが実体で、「マタイ」を歌うなど夢のまた夢でありました。念願の「マタイ」を取り上げるまでに、更に4年の歳月を必要としました。
   
編集部初期の3年間は毎年、年末に「メサイヤ」を取り上げていますがその理由は?
雀 部直接的には旗揚げ公演指揮者の奥田耕天先生のお薦めです。言うまでもなくバッハと並ぶバロックの合唱音楽と言えば「メサイヤ」で、年央にバッハの受難曲、年末にメサイヤという今でも続いているKAY合唱団の奥田スタイルによるもので、興行的にも安定した集客力があり、初期の会運営の要として、前田幸一郎さんに指揮者が変わっても踏襲され、指揮者が小林道夫さんに変わってバッハシリーズとしてクリスマスオラトリオを取り上げるまで3年間メサイヤを続けました。
   
編集部第1次バッハシリーズを始めたいきさつは何だったのでしょう?
雀 部1973年からいわゆる第1次バッハ連続演奏が始まりますが、これは後になってから名付けたもので、はじめから打ち出したものではありませんでした。当時バッハの演奏にかけては権威として定評のある小林道夫先生と東京ゾリステンからのお誘いで、一緒に横浜でバッハを演奏をしないかというお話があり、それまで都響2回、神奈フィル4回の競演の経験から、もう少し室内楽的なアンサンブルをしてみたいという希望を持っていたYCSの思いと、横浜定期を始めるにあたって集客力上地元の団体との共催を希望した東京ゾリステンの利害が一致して実現しました。前半がゾリステン単独の演奏で、後半がYCSの合唱つきというのがおきまりのパターンで、1977年まで5回の公演をしました。その第1回に取り上げたのがカンタータ4番(Christ lag in Todesbanden)で、歌い出しの「Chri」の発音を何回もやり直しをさせられ、ドイツ語にうるさい小林先生という強烈な印象が思い出されます。
   
編集部八尋先生招聘の経緯は?
雀 部1973年11月、その後のYCSを方向付ける大きな出来事がありました。指揮者として八尋先生を迎えた事です。専門的な合唱指導者がどうしても必要と考えた私たちは、ピアニストの谷口先生と東混の田中信昭先生の紹介で、当時東混に復帰間もなかった八尋先生に強引にお願いしました。小林先生とともに音楽作りが出来るならばと言うのが八尋先生の引き受けていただけた動機と伺っています。初レッスンの練習曲は、明くる1974年に演奏した念願の「マタイ」で、その時の印象は芸術家特有の尊大さのかけらもなく、まじめで誠実な学校の先生という感じで、全く無駄のない計算された練習の進め方に仰天したものでした。小林先生のYCS最後のステージとなった念願のマタイを新しい指導者とともに歌い上げた感慨は今でも忘れられません。それ以来27年、八尋先生ほんとにお世話になっています。有り難うございます。
   
編集部今日は現会員のほとんどが知らないような貴重なお話を伺う機会を戴きまして、誠にありがとうございました。

[編集委員会でインタビューし、まとめたものです。]

 

これからも横浜合唱協会

柴田 寿子

猛暑の続く夏の終わりに、ちょっとしたきっかけでアルバムの整理をすることになって、今までバラバラであったYCS関係の写真をひとまとめにしたり、プログラムの整理をしているうちに、入団当時のことなどがフッと思い出されました。

1973年10月「カンタータ56番」(東京ゾリステン第2回横浜公演)が初舞台で、YCS公演としては1973年12月「クリスマス・オラトリオ」(第7回)からでした。入団の動機は宗教曲が歌いたかったこととオーディションがなかったこと、唯一の条件として“熱心に出席すること”でした。この条件は具体的に“最低出席率60%”として今も変わらずに続いています。

練習で思い出すのは、永見先生の時には音程を取ってから言葉を付けてゆくやり方でしたが、八尋先生に代わられた「マタイ受難曲」からはいきなり言葉を付けて歌うこととなり、「えっ!」という感じでした。今では当たり前のように歌っていますが、あの頃は冷や汗タラタラでした。その「マタイ受難曲」の本番では、全パートが“Wo”というのを揃って落としてしまうハプニングがありました。(二部70曲目、アルトソロと合唱です)合図がなかったとはいえ、指揮者まかせ、他人まかせであったと反省しています。今のYCSではこのようなことは起こらないでしょう。休みの日に7〜8人集まってメンバーの家で、パート練習をしたのも良い思い出です。練習時のピリピリした雰囲気も、終わってからの飲み会(ビールだったり、コーヒーだったり)で一気に解消してしまい、これが楽しみで練習に行っていたように思います。ワイワイやっていても、話はいつも練習のこと、歌のこと、団のことになってしまうのは、今と同じではないでしょうか。

1976年4月「ヨハネ受難曲」(第11回)では女性ユニフォームが変わりました。白い衿なし、袖なしドレスから黒の同じ型のドレスになったのは、受難曲だからでしょうが、何と舞台は指揮者・ソリスト・オケ・合唱団の黒一色になってしまいました。お客さんからは“カラスの軍団”と不評を受けて、次回からは再び白のドレスになりました。この白のドレスは1988年の「ドイツモテット」他(第30回)まで着用し、以後は現在のものになりました。

この頃の合宿は東山荘や大磯アカデミーハウスでした。東山荘での合宿は2泊3日なんて信じられない日程で、半日ソフトボールのパート対抗戦やテニスをやって、よく遊びよく学べでした。この頃のYCSは家庭のような温かさがあったように思います。叱られたり、注意されたり、おだてられたり、時には遊びに連れて行ってもらったりと。そうした中でも皆がもっと上手になりたいと思う情熱を持っていたような気がします。9年間のブランクを経て再びYCSに戻りたかったのは、そんな雰囲気がなつかしく、あの情熱にふれたかったのかもしれません。しかし、1986年「ヨハネ受難曲」(第27回)で戻ってみると、以前とは少し変わったという印象でした。練習に関してもその他についても、個人の良識に任せるというか、お互いに注意しあったり、全体への提言なども影をひそめていました。それは成熟した大人の合唱団へ成長したということなのでしょうか。

今まで20年間歌ってきて、“継続は力なり”ということを実感しています。八尋・谷口両先生とヴォイストレーナーの先生方は勿論なのですが、この間に出会った多くのメンバーに育てられて、今ここに在るように思います。不可能とも思えることを次々と実現出来た裏には大きな運とそれにもまして多くの方々の力がありました。かつての夢であったドイツ演奏旅行が実現し、憧れであるトーマス教会で、しかも礼拝式の中で歌えたことは私にとって宝物の一つとなりました。さらに思ってもみなかったトーマス・カントールのもとでのヨハネ・マルコ両受難曲の演奏、そして再びドイツ演奏旅行を企画しているYCS。この様に大きく、大きく成長してきたYCSを思うと感無量です。

これからYCSは何処へ向かおうとするのでしょう。30周年を一区切りとして、創立当時のパイオニア精神を忘れずに再び、深みのあるバッハ演奏へ取り組んで頂きたい。YCSを企画運営している人達とメンバーとの意識や認識がずれてしまわないように、そして八尋先生とビラー氏に対する畏敬の念を抱き続けることで、今以上に質の高い練習と演奏が出来るのではないかと思います。一人一人、謙虚さと感謝の気持ちで歌と向き合う時にその響きが変わってくるように思えるのです。歌う私達と聴いて下さるお客様とで心に残る演奏会を一つ、また一つと増やしてゆきたいものです。

(会員)

 

バッハを歌った喜び

丹内 紀久代

私と合唱協会の出会いは1967年に逆上ります。友人の紹介で入会し、当時は「草の実会」という名で横浜YMCAのサークルとして週2回歌っていました。メンバーはほとんどが20代の合唱好きの若者の集まりという感じで、宗教歌曲やアメリカンフォークソングなどいろいろなジャンルの曲を歌っていて、他の合唱団とのジョイントコンサート、市や県の合唱祭に出演したりもしていました。歌の方も一生懸命でしたが、遊びの方も入会して翌年には車8台連ねての3泊4日の八ケ岳サマーキャンプ、また伊豆大島でキャンプをしたこともありました。定例の練習後には横浜へ出て食べたり飲んだり、時の経つのも忘れてよくおしゃべりをしました。

1970年にはYMCAから独立、「横浜合唱協会」と改称し、横浜でバッハを歌える合唱団を目指して、新たな目標に向かってスタートをしました。

その年のバッハの「ヨハネ受難曲(奥田耕天指揮、東京都響)」は忘れることができません。初めてのドイツ語であり、果たしてこの大曲を歌いきることができるのか不安でした。一方で私は役員として、練習会場の申し込み、後援依頼やプログラムへの広告依頼など、初めてのことばかりで無我夢中でした。メンバーは一丸となって演奏会へ向けて頑張りました。当日はバッハを歌い終えた感動と“やった”という充実感で一杯でした。打ち上げが終わって家へ帰ったのは真夜中を廻っていました。

その後、今は亡き前田幸市郎、渡辺暁雄、そして若杉弘、小林道夫諸先生といった指揮者に恵まれ、ヘンデルの「メサイヤ」、モーツァルトの「レクイエム」、ブラームスの「ドイツレクイエム」、バッハの「クリスマスオラトリオ」そして大きな夢であったバッハの「マタイ受難曲」を歌うことができたのです。

私にとって“マタイ”を歌った喜びは何にもかえがたい経験でした。当時の私は何時かライプツィヒの聖トーマス教会で歌いたいという夢がありました。それが30年後に皆さんは実現させてしまったのですから本当に素晴らしいことですし、合唱団としての歴史の重みを感ぜずにはいられません。

私は9年間という一時期、横浜合唱協会の一メンバーであったことを誇りに思っています。合唱によってバッハの音楽の素晴らしさを学び、その後もバッハの魅力にひきつけられ続けています。今や横浜において唯一バッハを歌える立派な合唱団に成長し、なおも新しいことにチャレンジして行こうという姿勢に共感を覚えます。

今後も素晴らしいバッハを聴かせて下さることを楽しみにしています。

(維持会員)

 

ロ短調から歴史シリーズ

佐々木 聰子

1976年、第一次バッハシリーズ9、ロ短調ミサの練習も2ラウンドに入っていた12月、私はYCSに入会しました。

生き生きしたリズムと美しい響きで難しいフレーズを軽々とこなす若々しい声に圧倒されて帰ったことを覚えています。当時既に充分におばさんであった私はロ短調どころかバッハも初めてで、私は勿論、まわりの方々もずいぶん不安だったことでしょう。夢中で練習し本番を迎える頃には完全に虜になり今日まで居座ることになりました。

休む間もなくもモテット全曲をどんと渡された私は、先に待つ地獄も知らず呑気なものでした。折しも県の創作コンクール入賞曲初演を依頼され、その練習に時間を取られてモテットの方はやっと通った状態で本番が来てしまいました。ドイツ語、音程、アンサンブル全てに問題を抱えたままで、スリルとサスペンスのステージに突入しました。恐怖のあまりというべきか異常な緊張感で粗削りながらエネルギーに溢れた演奏だったようで、反省も含め今もって語り草のモテット全曲演奏会でした。

第一次バッハシリーズの締括りはマタイ受難曲で、ロ短調と同じ若杉弘指揮。入会してからすべてが初体験となる私にとって、マタイの練習の一日一日が本当に貴重なものでした。声と言葉の問題、音程、アンサンブル、様式、全てが現在も終わりのない歩みです。

79年からは苦難の歴史シリーズがスタートしました。アカペラに取り組むことの難しさは今も大きな課題ですが、とても新鮮に取り組んだ憶えがあります。又当時の若いメンバーを中心に今のレクチャーの前身のような活動が生まれ、テーマを決めて情熱を持って取り組み「波ささメモ」?などが発行されました。ついでに幾組ものカップルが生れ、第2次結婚ブーム到来です。その時の二世が今や会員となって活躍しているのです。かくて歴史シリーズは数々の教訓と課題と話題を残して84年メンデルスゾーンで完結しました。

今でこそ恵まれた環境での練習が当たり前になりましたが70年代、80年代中頃迄は主会場は2つの教会、月1の日曜練習は学校をお借りしていました。どこも暖房はあるもののクーラーなどありませんから、全開の窓からは蚊や蛾も出入自由、ゴキちゃんもお見かけしました。また、バッハの「マニフィカート」を練習していた時に教会の飼い猫が悠然と先生の前を横切ったり(当時在籍していたバーバラさんがそれを見て“magnifi-cat”と言ったという逸話もあります)、或いは台所からうどんのいい匂いがして来たりと、まことに生活感に溢れていました。小学校の音楽室の横を鼓笛隊が行進したり、冬の体育館の半端でない寒さなど何でもありでした。

まだまだ世の中もつつましく合唱に打ち込む時間もエネルギーも今よりはゆとりがたあったのでしょう。いつも身の丈に余る目標に向かってがむしゃらに切り抜けて来たあの頃をとても懐かしく思います。

あれ?今も相変わらずのようですね。

(会員)

 

資料でたどる70年代

横浜合唱協会 第1回演奏会プログラムより

『J.S.バッハ  ヨハネ受難曲』
指 揮奥田耕天
オルガン草間美也子
管弦楽東京室内管弦楽団
独 唱S.加藤綾子(マリアとはしため)
A.藤田みどり(アリア)
T.藤沼明彦(福音史家) 
Br.原田茂生(イエス)
B. 吉江忠男(ペテロとピラト)
合 唱横浜合唱協会
賛助出演東京YMCAオラトリオソサエティー
合唱指導吉田孝古磨
永見冨久好
1970年7月14日(火)P.M.7:00
神奈川県立音楽堂

横浜YMCA総主事  高橋四郎

横浜YMCA草の実会として、吉田孝古磨先生指導の下に、YMCA活動の一環として合唱運動を続けておりましたが、今般非常な成長を折りにYMCAから巣立って横浜合唱協会を形成し、専門的に合唱活動を進めて行くことになった次第で、当初から関係しておりました者としては喜ばしい事として心から祝辞を呈する次第であります。ご承知の通りYMCAは青少年活動の団体であり、その中には合唱あり演劇あり各種スポーツあり、いずれも若い勢力の発散と同時にグループの成長の場ともなっております。そして一本立ちになればY(原文のまま)から出ていくという例も幾つかあります。かっての木曜会(山根先生指導)もYから生まれましたし、横響もYが温床になって小船先生の努力で今日の大成を見ております。 (以下省略)

横浜交響楽団指揮者 小船幸次郎

バッハの音楽は何によらず独自の美しさと深さがあって、それを表現する独自の歌い方と奏きかたがある。それを合唱団の身につけさせるのに、それを指導した吉田、永見両氏始め多くの人の苦心があった。先日の県民合唱祭でヨハネ受難曲の一部を歌ったのを聴いたが、指導者達の苦心が実ったように受け取られた。横浜で横浜の合唱団の手でバッハの受難曲が全曲歌われるのは初めてである。是非成功してほしい。最近の合唱団の多くが日本の合唱曲を歌うのに専念して、バッハやブラームス、ベートーヴェンの合唱曲を歌うのは特殊な合唱団になった。ここに合唱の歴史に断絶が見られる。YMCA草の実会が横浜合唱協会と名前を変えてもヨハネ受難曲を歌おうとした執念には敬服する。この会の終わった後、横浜合唱協会はどう進むかが難しいが、出来ればバッハその他の宗教音楽を歌う会として進んで欲しい。それに応えられる充分過ぎるほどの宗教音楽が歌われるのを待っている。

<横浜合唱協会改称までの歩み>

1962.08.01「横浜YMCA草の実会」として発足
1963.04.26マックス フルッフオラトリオ「美しきエレン」他
1963.07.24フォーレレクイエム協演
1964.08.27大中寅二第5交声曲「山の上のことば」他
1965.05.26オルフカルミナ・ブラーナ協演
1965.09.24ビバルディグローリアミサ 他
1966.02.23マスカーニ歌劇「カバレリア・ルスティカーナ」協演
1966.09.02ハイドン天地創造 他
1967.04.26ビゼー歌劇「カルメン」協演
1967.07.17メンデルスゾーン宗教歌曲集 他
1967.12.22バッハカンタータ第142番 他
1968.05.29プッチーニ歌劇「ボエーム」協演
1968.10.07モーツアルトレクイエム 他
1969.05.26ハイドン四季
1970.04.01「横浜合唱協会」に改称
1970.07.14バッハヨハネ受難曲

第5回演奏会「ドイツ レクイエム」 1972.6.14.プログラムより

★会員募集★

聴衆の前で演奏する場合にアマもプロもありません。演奏は聴く人に「何か」を与え、それが希望に、愛にそして勇気に結びつくものでなくてはならないと思います。横浜合唱協会はそのような演奏を是非、神奈川の地で実現させたいと願っています。

入会の条件:情熱を以て合唱音楽にとりくむ意欲のある方。

経験は問わないが、まじめに練習に参加できる方。

ご希望の方は 連絡先:..................

第6回演奏会「メサイヤ」1972.12.24.プログラムより

本日はご来場賜りまして、誠に有難うございます。

私達横浜合唱協会の「メサイヤ演奏会」も、皆様の絶大なる御支援によりまして、今年で3回目をむかえました。

この神奈川にあって10年間、私達は多くの優れた先輩合唱団と共に、アマチュア合唱団の隆盛と質的向上を目指して弛まぬ努力を続けてまいりましたが、その間、私達に寄せられた皆様方の心からなる御支援とご理解ならびに私達をこゝまで導き育んで下さいました諸先生方の惜しみない御協力と御指導に対しまして、こゝにあらためて深く感謝の意を表する次第です。

今回の演奏会は、特に指揮:前田幸一郎先生ならびに管弦楽:東京ゾリステンの共演を得、又二期会より優れた独唱者をおむかえしまして、従来にも増して充実した木目の細かい演奏をと、一同心に深く念じております。

かって、当地域においては、一つのアマチュア合唱団が単独で斯様な規模での演奏会を催すことは非常な無謀とされ、多くの合唱団がその願望をいだきながらも、実現を断念せざるを得ませんでした。「東京に近く地理的に不利」とか、「最近は日本の合唱曲が全盛で古典やバロックの大曲に取組もうとするメンバーが少ない」とか、「費用がかかりすぎる」等々、実現を断念せざるを得ない理由は類々ありました。

しかしながら、一方この地域で(即ち横浜で・・・)バッハを、ヘンデルを、そしてモーツアルトを、ブラームスを、是非本格的に学びたいという声も次第に高まっていました。

「この地域にも、是非そうした合唱団を--------」と

そう考えた横浜合唱協会は、これまで否定的だったいくつかの要因を、ある意味では肯定しながらも、敢えてこれを自らの力で解決していくことを確認し、1970年の「ヨハネ受難曲(バッハ)」の演奏を皮切りに、現在の形へと歩を進めてまいりました。

そして今年創立10周年、確かに歩んで来たその道は決して平坦なもではありませんでした。

メンバー数一つを取り上げてみても、60〜70名位が勢一杯で、私達が目指す80名以上のカベは非常に厚く、これを実現することが今後の私たちに課せられた大きな課題の一つでもあります。

私達は明年以降、2年間の計画で「バッハシリーズ」に取組む事をすでに決定しております。

幸いなことに、この計画には小林道夫先生ならびに東京ゾリステンの全面的なご協力をいただくことになっており、より充実した音楽作りを目指す私達の胸は、その期待に大きく脹らんでおります。

大いに勉強して、立派なカンタータを、壮大なクリスマスオラトリオを、そして敬虔なマタイ受難曲を、是非実現させたいと願っております。

まだまだ微力な横浜合唱協会ですが、皆様方のあたゝかい御支援と御協力によりまして今後も一層の発展を期して頑張ってまいりたいと存じます。よろしくお願い申し上げます。

横浜合唱協会

YCS NEWS No.176 1976.5.21(Fri)より

☆おめでたニュース

いい季節になりました。TさんS君のおめでたを皮切りに今年の合唱協会は、おめでたyearになりそうです。そこでちょっと耳にはさんだ不確定のウワサも含め

5/08 Tさん(S)×S君(T)(両者ともメンバー)済
 5/15 Tさん(S)×I君(B)(両者とも元メンバー)
 5/29 Tさん(S)×F君(B)(Tさんは元メンバー)
 5/30 Sさん(S)×Kさん(Kさんのお姉さんは元(A)メンバー)
 ?/?? Mさん(S)×Oさん(Oさんは知らない人)
しかし女性がいずれもソプラノというのはどういう訳?

【註】編集上、姓はイニシアル表記としました

YCS NEWS No.203 1977.2.25(Fri)より

☆あさっては日曜練習!!

日曜練習となるととかく出席が悪くなる。日曜こそ体力、気力、声力等々全て充実。練習時間もたっぷり。歌キチにはたまらない日のはずなのに。
  13:30−14:00 S発声練習
  14:00−20:00 全体練習
 於 婦人会館

YCS NEWS No.172  1976.4.9より

☆3月会員勢力報告(藤井)
月末在籍者平均出席率
1989
1782
1089
1376
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
59人84 %
☆会員募集は会員の手で!!

 募集目標  155人  

  • 不可能でない。一昨年は年間100人以上の来会者有り
  • 歩止まりは40%→実績
    • 1963 9/中のカンタータまでに100人
    • 10/中の合宿までに更に50人募集する
  • 会員一人 3人の紹介を!!

 

 

今も印象深い…

小見山 雄次

横浜合唱協会も30周年を迎えられるとのこと。一時期、在会したものとしても、その重さを感じさせられます。
 合唱ならず、音楽そのものとも無縁だったものが、合唱協会前身の「草の実会」のビバルディー・グロリアに感動して、歌うことを始めたのがついこの間、のように思えます。30余年にわたり、この会を継続されてこられた皆さんに、敬意を表します。
 さて、「草の実会」を含めて13年余り在籍させていただき、更にその後の演奏会を聴かせていただいたことの中で、今でも印象に残る方々にふれさせていただくことにしました。(他にもたくさんいらっしゃいますが、紙面のこともあり・・・)

万年 武さん(創立者として)
 「草の実会」そして「合唱協会」の創立者です。
 ‘70/12第2回定演(メサイア)のプログラムの挨拶の中で、創立にいたった思いを次のように述べています。「横浜の地において一つのアマチュア合唱団が単独で斯様な規模での演奏会を催すことは〈筆者注:当時は〉非常な無謀とされ・・・・・・、然しながら、一方この地域で(即ち横浜で・・・)バッハを、ヘンデルを、そしてモーツアルトを、ブラームスを、是非本格的に学びたい・・・・・・、敢えてこれらを自らの力で解決していくことを確認し、・・・・・・・・」。
 「創造は易く、守成は難し」とは言え、無から有をつくりだすには特別なエネルギーが必要です。それは情熱であり、理想、思い入れ、心意気、使命感などであったことと思います。私を含め若くて歌うことだけが好きだった50余名の大衆を共鳴させ、ことをスタートさせた音源としての魅力と働きは今でも印象深いものがあります。

雀部征宜さん(マネージャーとして)
 音楽の才能もすばらしい方でしたが、むしろ合唱団の運営面でのリーダーシップが、今でも印象に残ります。八尋先生を始めとして、ボイストレーナー、ピアニストの招聘、演奏会の企画、日常的会の運営等々、合唱協会の礎をつくり、発展させることは、大変なことだったと思います。
 合唱団は、単に歌が好きなものが集まれば成り立つというものではなく、ことを成就させるには多くの困難と裏の力仕事があるはずです。時には過去のしがらみを断ち切る勇気も必要でしょう。曲とか、指揮者の魅力という細いきずなを切らすことなく続け、続けることこそ守勢の大変さではないかと思います。その点、合唱協会はベストなマネージャーを得たのではないかと思います。

このお二人に共通することは、「よりよい音楽を歌いたい」という単純にして明快な思いではないでしょうか。

合唱協会の皆様へ
 30周年を期し、改めて、創造と守成の心意気をにじませ、時にはバッハの予定調和的清浄さを危うくするような、認知的不協和な感動を私達聴くものに与えられんことをひそかに願っています。

'00/10 在、名古屋(旧会員) 

80年代を振り返って − 雌伏の時 そして深き淵より

新井 隆士

80年代幕開けは、「合唱の歴史連続演奏シリーズ」中盤の山、バッハのh-moll を掲げての創立10周年演奏会に向け順調にすべり出した。この年の3月に、ドイツ宗教音楽の祖とも言うべき大家シュッツに触れ、バッハ時代につながるドイツ音楽の真髄を味わった我々は、久方ぶりのバッハへの回帰の喜びと創立10周年という特別な思いの中で、この年の後半を一目散に駆け抜けようとしていた。この勢いは翌年のヘンデルに受け継がれ、今シリーズの末尾となる84年のメンデルスゾーンまで緩むことなく続くだろうとの、ある種楽観的な予測が会員の多くを支配していた。しかし翌年冒頭から、会は思わぬ現実に直面する。会員の減少である。h-mollで70の大台に乗せた会員数が、数ヶ月の間に10人余り減ってしまったのである。この時から苦悶の数年間が始まった。宣伝を意識しての県合唱祭への参加や、新会員募集のために前にも後にも1回限りのいわば妙案を会員に提示するなど、様々な努力をしたにもかかわらず会員数はその後も減り続け、歴史シリーズを締めくくる84年4月のメンデルスゾーンの舞台に立った会員の数は、50を割ったのである。

振り返るに、80年代前半はまさに会の「雌伏」の時期であった。しかし、この「雌伏」の時があったからこそ現在の合唱協会の姿があるとするのは、あながち私の独断にとどまらぬように思える。なぜなら、この時期に現在の合唱協会につながるいくつかの「仕掛け」がなされていることが当時の資料などから察せられるからである。その1は練習日のこと。会員数の減少傾向とともにこの時期問題となったのは、会員の出席状況の低迷だった。平均60〜65%という出席率がそれを物語った。それは会員の努力を超えた物理的要因、特に男性会員にとっての金曜夜の社会的意味の急激な変化によるところが大きかった。当時日本社会はようやく週休2日制に向けて動き出した時期だったのである。仕事の総量が変わらぬ中での隔週2休の導入などは、何人かの会員をして金曜の夕を特別に忙しい時間にしていった。会員の集まらぬ練習ではアンサンブルは成り立たなかった。この状況打開のため、83年4月、練習日変更に関する最初のアンケートが実施されている。それをふまえ7月からは隔週金・土併用練習が試行され、年末の総会には次年度以降の土曜練習固定への提案がなされた。総会での活発な意見の交換が当時の議事録に生々しい。賛否両論相拮抗するに及び、次年度4月にこの件に関する臨時総会を開くことを前提に、隔週金・土併用練習を当面は継続することとした。結局、このときの妥協案がその後数年間続いたとはいえ、80年代後半の経過措置を経て、90年代初頭に現在の土曜練習に固定化していったのだった。日本社会の変容の一端を趣味の集団の歴史が代弁している例がここにある。余談であるが、後のタールビュルゲルへの道を準備してくれたハーゲン君が90年代半ばに来日中、総会に出席してくれたことがあった。その時の彼の感想が興味深い。曰く、「大変に民主的であることがわかった。しかしさらに前進するためには女性がもっと運営に参加すべきだ」。なるほど社会主義圏で育った男性の意見だとその時は感心したが、これがしっかりした根拠に基づいた発言であったことが、後のタールビュルゲルへの旅でわかった。(音楽祭企画委員長のフライガングさんのことをご存知の方は思い出してください。)

「仕掛け」その2は八尋先生の渡欧に関したことである。この件は20周年誌誌上に掲載された先生からの手紙に詳しいが、最近の合唱協会の活動と密接な繋がりがあることなので、ここで触れさせていただきたい。先生は82年12月から83年3月にかけて、文化庁芸術家在外研修員として渡欧され、フランクフルトを起点に旧東独圏やスイスに足を伸ばされた。先生が手紙の中で書いてくださったメンデルスゾーンの宗教曲の良さや、ローザンヌで会われたミシェル=コルボの印象などを帰国後の練習の合間にお話しいただいたことを、私は今でも覚えている。さらに重要なのは、この渡欧の際先生が最も重視されていた訪問地はやはりバッハゆかりのライプチヒであり、そしてそこで一人の有望な若き芸術家、ビラー氏と出会っていたことなのである。このことも先生は帰国後の練習の合間に、「とても親切な、そしてとても有望なトマナコア出身の音楽家と親しくなることができました。」と、まだそのことが今後YCSにとってどのような意味を持つか知る由もない会員達に、いつものとおり飄々と語られていたことが今となっては忘れられない。2年後の12月、トマナコアのソリストとして来日されたビラー氏は、八尋先生の招きで会の練習を訪ねてくださり自ら初めて私たちの前で指導してくださった。その凄烈な若々しさと豊かな音楽性、そして純粋きわまりないドイツ語の響きにただただ圧倒された。さらにその5年後の1990年10月、あのドイツ統一の日の数日後に開かれたライプチヒ、ペータース教会での「平和の祈り」におけるバッハモテットの演奏指揮に、今度はビラー氏が我が八尋先生を招かれたのである。話を戻さねばならない。さて、ドイツから戻られた八尋先生は、これまでにも増して私たちの20周年記念演奏会の演目であるh-mollの指導に打ち込んでくださった。にもかかわらず本番数日前になって先生は折しもトマナコアと来日中であったビラー氏に総仕上げの舞台を譲られた。このことは八尋先生の誠実でまた寛容なお人柄、もしかしたら黒田武士的な人への思いやりを、若き音楽家と合唱協会の双方に示してくださったこととして、感謝の念にたえない。90年代の後半に爆発的に現実化したビラー氏と、ライプチヒ・トーマス教会と、さらにタールビュルゲルへと続く太いパイプは、こうして「雌伏」の80年代前半に種まかれたものだった。

蓋しバッハの求心力を誰よりもよく知る合唱協会が、敢えてそこから離れることでよりバッハへの理解を深めようとした「合唱の歴史シリーズ」。そのシリーズ後半に当たった80年代前半は、当時の会員にとっては苦しい時代ではあったが、また意味深き時代だったのである。80年代前半の音楽的なことに触れていなかったが、70年代後半から続いたこのシリーズはルネサンスからロマン派前期の主だった西欧宗教作品に取り組んだことで、間違いなく合唱協会の音楽的懐を深くしたし、その間幸いにも在籍した会員にとっては当時としてはもちろん、また現在においてもこれほど系統だった演奏体験はアマチュア一個人として得難いものである点で、大変に充実した時期であったと私は感じている。

付記:八尋先生が83年始めの渡欧中、その代役に指名されていたのが江上先生であったこともここで書き留めておきたい。

これに続く80年代後半は、「第2次バッハシリーズ」と題して再び合唱協会の永遠の課題であるバッハ演奏に正面切って立ち向かった時期と言えるだろう。というのは、このシリーズの特色が、まさにバッハの音楽の真髄であるカンタータの演奏を中心としたものであったからだ。演奏会の時間の長さの割には合唱団の歌う時間が短く、一部会員からは専門的すぎるのではないかとの批判無きにしもあらずであったが、東京バッハアカデミーで当時勉強されていたF氏とO氏、それに今は維持会員になっておられる、バッハへの情熱と知識に関しては誰もが一目をおいたT先生(誰もがT氏を呼ぶときは「先生」をつけていた。それはただ単にT氏がお医者さんであったからだけではない。)等の頑ななまでの信念に、皆も納得せざるを得なかった次第である。ここでも私自身は総計10余りのカンタータの実演に参加できたことで、それまでよく知るところでなかった教会のカントールとしての各時代のバッハについて勉強する機会を得、大いに刺激を受けた。このころからT氏を中心に会員に配付される資料の内容が、回を重ねるごとに充実していったのを思い出す。90年代に入ってから、「レクチャー」と称する勉強会が正式に始まるが、その下地作りもこのころから始まっていたといってよいのだろう。それにしてもさすがにカンタータのみを数曲集めた演奏会では合唱団員としての待ち時間が長く、皆が立ち上がる音ではっと我に返ったこともあったのは私だけだろうか。

総じて80年代後半の合唱協会は、90年のh-moll へ向けての比較的安定した回復期であった。そのことは会員数の漸次回復、出席率の若干の向上に客観的数字として現れていた。また、より良い合唱活動を目指すために会費の増額という会員の負担増はあったものの、それに見合うだけの充実した練習環境を作り上げていく努力を、運営担当の方々を中心にこの時期にあきらめず続けたことが大きかったと思われる。代表S氏の常に先を見通した指導力、企画力に優れる上に献身的な運営態度を発揮されるF氏。この両巨頭を中心にリヴェンジへと動き出した合唱協会にとって80年代後半の泣き所は会場難だったが、その確保にいつも走り回ってくれたSさんを中心に何人かの主婦が今日の主要練習会場である吉野町プラザや岩間のホールを開拓してくれたことも、現在会員で居続けられる我々は感謝しなければならないだろう。この間日本経済は90年のバブル崩壊に向かってすでに鉄鋼産業などに翳りが見え始め、89年には先にも触れた旧東欧圏の革命と、国内では昭和が63年と7日で終わった。こうした何か落ち着かない世情とは裏腹に、80年代後半の合唱協会は様々な難問を乗り越えるごとに力をつけ、まさに“深き淵より”立ち上がっていった。

(会員)

資料でたどる80年代

YCS News No.336 1981.2.6(Fri)より

☆会員一人一人が新しい会員を連れてきましょう。

会員係の方では各種演奏会でのビラまき、音友広告、新聞等の投書等あらゆる手で新会員集めをしていますが、今回の「エジプトのイスラエル人」は日本でも全曲演奏されるのは初めてであり、名曲ではありながら人々にはあまり知られていない曲で、新しい会員の入会状況が「h-moll」のときに較べてよくありません。このままだと演奏会に出演できる人は60名を割ってしまい、演奏が難しくなるばかりではなく、財政的にも1人25枚ものチケット負担となってしまいます。このような中では会員が本気になって新人を連れてくることしか道はありません。

そこで新しい会員を連れてきて、その人が定着してチケット売りに寄与した場合には紹介して下さった方のチケット負担を次のように軽くすることにしますので、皆さんどんどん新しい方を連れてきて下さい。

演奏会に出演することができた人を1人連れてきたとき ……… 80%
     〃          2人   〃    ……… 70%
     〃          3人   〃    ……… 60%

練習日変更に関する趣旨説明

83年、練習日を金曜日から土曜日に移行するについては、アンケートを行うなどして会員間の意思統一をはかる努力が続けられたが、反対の声はなお強く、暫定的な措置として金・土の組み合わせが、試行された。

合唱協会各位殿

練習曜日の変更の趣旨と経緯について

5/20と5/27の練習後に御報告した練習曜日変更に関して、詳しい説明が不足していたため、充分な御理解を得られず、多くの御不満の声が聞かれました。ここにあらためてその趣旨と経緯について御説明し、会員各位の御理解と御協力を願う次第です。尚、本番前のあわただしい時期故、とりあえず文書による御説明にとどめることをお許し願いたいと思います。

YCSの定例練習日は過去幾度かの変遷があり、月・木、日・金等の週2回の練習から、木曜日週1回等を経てきました。変更理由は会員の集まり易さの他に、会場や講師の都合等、その都度の事情によるものでした。しかし、ここ数年現在の金曜+第4日曜にすっかり定着してきたのは、平日の中では金曜日が勤め人にとっては比較的集まり易いこと、先生方の全面的な協力を得られたこと、いい合唱をつくるために月1回くらいなら日曜を使うことへの会員の理解が得られてきたこと、などの理由によるものと思われます。

しかし特に男性会員の年令上昇と共に、勤めの関係で金曜日の出席がしだいに困難になり、何とか出席は出来ても揃うのは8時過ぎ、という状態が恒常化してきました。YCSが絶対必要と考えている出席率80%はおろか、最近では70%も苦しい状況となりました。更に会員の中心となって先頭に立つべき企画をはじめとする中心役員さえ、自らの出席や定刻出席がおぼつかないという現実のために、ついつい会員への出席改善へのアッピールが鈍くなっていったのは無理からぬことと思います。

練習日を土曜にしようかという話題は、こんな背景の中で、企画ではかなり前から出ていましたが、週休2日がかなり一般化してきた現在、定例的な用事はなくとも、平日とは同列に扱うことの出来ないある種の「聖域」であり、簡単に実施出来るものではありませんでした。

理想的ではないにしても、そこそこの活動はやっているし毎回の演奏会もそこそこの評価も得ている、それなのに何の無理をしなければならないのか・・・・・という考え方を、しかし私達はとりたくありません。YCSの目指すところはそんなそこそこの合唱ではないはずです。そのためには、練習の充実、出席の充実が絶対必要で、いろいろ問題はあるけれども土曜練習を真剣に考える必要がある、と企画は考え、---------(略)----------暫定的に中間的な金・土併用案を試みることにしました。----------約半年間の試行の後、その成果と問題点を検討し、会員の合意を得て、その後の形態を決定したいと考えています。

一部の会員の都合で他の会員が迷惑するという類の問題としてとらえるのではなく、YCSがもっともっと発展するための大胆な試行錯誤であることを是非理解して頂き、積極的な御協力をお願いいたします。--------これに伴って練習会場を6/17より紅葉坂教会に変更致します。

以上詳しい説明が遅れたことをおわびするとともに、会員各位の御理解と、御協力をお願いする次第です。

1983.6.2  YCS企画を代表して         雀部征宜

YCS News No. 414 1983.9.18(Sun)より

○今週の予定

9月・10月に見るように、第○週という数え方は金曜日を基準にします。

9月24日(土)6:00−7:00女声VT, 男声パート練習
7:00−9:00全体練習
9月30日(金)7:00−9:00全体練習
10月7・21日(金)7:00−9:00全体練習
10月15・29日(土)6:00−9:00全体練習

従って10月は上のようになります。なお10月の日曜練習は取り止めにします。

○7月及び今年度7月までの出席状況
パート人数出席率
1675%
1780
1049
1468
合計5070

特にテノールの出席が大変悪い。この辺で気を引き締めましょう。『休むときはパート委に連絡を』『低出席率の続いている人には、パート委が積極的に働きかけましょう』

YCS News No. 431 1984.4.14(Sat)より

○3月出席状況
パート人数出席率
1677%
1566
88
1269
合計5073

パートリーダーからの一言 YCS News No.418 1983.11.12より

“練習に出てくること”の意義 (ソプラノパートリーダー 斉藤 佳子)

最近まわりを見回すと出席人数がずいぶん少ないようです。

このあいだから詩篇95の練習に入り今や、ことば・リズム音とりにと必死になっている訳ですが、こういう練習でこそしっかり基礎を身につけ、また歌いこんで帰る価値があるのではないかと思います。ドイツ語を一語ずつひろって読むこと、音の長さに注意すること、語尾をきちんと合わせて切ることなど、どれも大切な事であるのに欠けている部分であるし、また他のパートがどんなメロディーを歌っているのかを一番注意して聞ける時でもあるのです。

これまでの演奏会をふり返ってみても、不安なことにいいかげんな発音や音の長さのままなので、新しい曲に入った時の譜読みがずいぶん雑であったように感じられますが、それでも幸か不幸か本番は無難に終わっている訳で・・・(YCSの場合)・・・でも「アマチュアだからこんな程度で」と満足しないで、やるからにはせっかく集まった仲間と演奏会を目標に少しずつでも進歩したい!!

それでは「よい音」を作りだすには・・・?やはり前回書かれた人の声をよく聞くこと以前の問題として、「音を読む」「ことばを正しく発音する」といった初めの段階から手抜きせずに一緒に考え直さなければならない・・・つまり練習に多く参加することから始まるのだと考えずにはいられません。周りの声を聞くこと(感じること)や指揮を見ることの余裕は、しっかり歌い込んでさえあれば自ずとできてくるものだと思います。4月まで間があるからという甘えはどこかに捨て去り、みんなで作り上げていくものだからこそできる限り練習に参加して、本番には各人がもっと余裕をもって歌いたいものですね。

トリ通信 1987.6.13(Sat) No.13より

はく音と吸う音 (テノール パートリーダー 柴田 秀男)

ドイツ語教室は連載1回にして、いきなり番外編である。------(略)--------

人が話すときにその言葉の発声には息をはきながら発音する部分と、吸いながら発音する部分があると思う。本当は吸いながらではしゃべれないのだろうが、積極的に息をはくのと比較してそう感じられる。だいぶ前にラジオで神津カンナ(中村メイコの娘)がしゃべっているのを聞いた時、とても耳障りに感じたので、その理由を考えてみた。そこで思いついたのが先に述べたことである。はくとすう、これはバイオリンの弓のアップダウンや曲の中の強拍弱拍みたいなもので、片方だけではバランスがわるい。心地良くない。ところが彼女はすべての言葉を、(積極的に)息をはきながら発音していたのだ。他にも歌手のイルカ(歌は良いのだが)の話し方もこれに近く、「よう来たのう、われ」と荒っぽいしゃべり方をする河内弁もそうだと思う。反対に吸う発音だけの例はちょっと思いつかないが、ソプラノの誰かさんが、話し方が嫌いだといっていた森本レオがもしかするとそれに近いかもしれない。

ここに書いたのは「g」と「ng」の発音を区別しようとするとき、いつも考えることである。日本語でも「がっこう」は「ンガッコウ」ではないから、積極的に「ガ」と発音する。ところが「おとうさんが」を「オトウサン・ガ」だと敵意が感じられる。

日本語の「ん」は言葉のはじめに来ることはないのだが、例えばスワヒリ語(ケニア、タンザニアの公用語)にはある。10年以上も前になるが、筆者が訪れた世界第二の火口原、タンザニアのゴロンゴロクレーター(第一位の火口原はもちろん阿蘇)は「ngorongoro」で、ンゴロンゴロと発音するのが正しい。他にもアラレ語で「んちゃ!」というのがある。

レッサー・フラミンゴの挿し絵 (毎回様々なトリの挿し絵が施される)
  レッサー・フラミンゴ
   普通のフラミンゴに比べ小型である。ゴロンゴロクレーターの中の沼にいた。

6.3 アッピール −1989.6.3−

“より良い音楽づくりを目指して”

YCS企画を代表して  雀部 征宜

YCS企画では、現在迄のYCSの活動が、バッハ演奏団体として、ある程度の実績を上げてきたことに、一定の評価をしつつも、なお十分満足できるレベルではなく、現在の先生方や、会員の潜在能力を考えると、もっともっと素晴らしい演奏団体の可能性を持っていると考えてきました。そして、その「可能性」を、「可能性」にとどめている要因は何かを、多くの方々のご意見を参考にしながら検討してきました。

本年3月、この事の最後の詰めをするために、企画の中に“演奏技術向上小委員会”を設け、YCSの目指すものは何か、それに対して現状はどうか、ギャップは何か、そのギャップをつくっている原因は何か、それを取り除くには何をしなければならないかを、マタイ後の再出発を目標に検討してきました。

そして、当初の目標時期に対して1ヶ月あまり遅れて、今般、先生方との打合せ、企画での確認を経て、以下の内容に集約することができました。今後の活動の中で、皆の力でさらに内容を充実させながら、より良い音楽づくりを目指して、頑張っていきたいと思います。

  1. 合唱協会の目指すもの(コンセプト)------入会案内記載事項
  2. 現状の問題点(好ましくない結果、現状とコンセプトのギャップ)----省略
  3. 対応策

以上の好ましくない結果の対応策として、以下の方策を実施し、あるいは会員の皆さんに協力をお願いしたいと思います。

  1. 練習を本番と同じように大切にしたいと思います。そのために、予習その他の十分な準備をして万難を排して、出席して下さい。
     私達は皆、職業、主婦業、学業などの本業を持っています。この本業のやむを得ない事情を犠牲にすることを求めているわけではありません。本業をないがしろにする道楽は、長続きしません。やむをえず欠席する場合は、パート委員に事前にその旨を連絡して下さい。そして、その日の練習内容や、連絡内容について、フォローし、極力マスターし、欠席の弊害を最小にする努力をして下さい。もちろん、パート委員や、パートリーダーは、出来るかぎり伝える努力はしますが、基本的には欠席者の責任と理解して下さい。
  2. 練習は本番です。開始5分前には練習場へ入って下さい。
     現状の遅刻を見ていると、必ずしもやむを得ない事情ばかりとも思えないのは残念なことです。何曜日の何時の開始でも、開始30分の間に入る常連の存在は、何を意味するのでしょうか。やむを得ず遅刻した場合は、演奏会に遅れていったときのように、音楽の緊張を損なうことのないように、細心の気配りをすべきです。-----省略----
  3. 練習は本番です。その時の最高の音楽を作り上げるために、全神経を集中したいものです。私語は慎み、指揮者に集中し、指示は、同じことを再び注意されないように、必ずメモするようにして下さい。雰囲気を和らげるための楽しい話には、大いに笑いましょう。しかし、厳しい指摘に対しては、笑ってごまかすことなく、真摯に受け止めたいものです。
  4. 常により良い演奏を目指して、演奏技術を向上させるためには、曲作りの練習ばかりでなく、基礎練習が極めて重要です。姿勢、息の流れ、音程、ピッチ、音色、共鳴、和音、抑揚、等々について、頭で理解するだけではなく、体にしっかり教え込んでおかないと、実際の演奏には、なかなか生きてきません。そのために、毎回の練習の前半の貴重な1時間を、基礎練習に当てることを定例化します。具体的には、コールユーブンゲンをテキストに発声とソルフェージュの練習に30分、アカペラ曲をテキストにする和声、アンサンブル、アインザッツ等の合唱の基本的なトレーニングに30分です。この1時間は、曲づくりの練習と同様に、あるいは考えようによってはそれ以上に重要な時間で、全員が真面目に取り組まないと意味がありません。決して全員が揃うまでの時間調整や、前座ではありません。
  5. その他、同様の目的で、技術委員長の設置、個人VT、パートVTの長期的、計画的、戦略的な内容、アカペラ曲の小アンサンブルによる練習、奇麗なドイツ語のためのリーフレットの製作と正しい発音の傾聴、など積極的で、地道な方策を実施します。
     また、これらの活動を、根の生えたものとするために検討中の投稿誌や、いろいろな場を通して、会員の皆さんの意見を聞きながら、実りある活動にして行きたいと思います。

たかがコーラス、されどコーラス。ひたすらに良いコーラスを、との願いから、今、横浜合唱協会は、新しい第一歩を踏み出そうとしています。会員の皆さんのご理解とご協力を切に期待する次第です。

 

八尋先生並びに横浜合唱協会との出会い

土井 賢一

私が合唱の世界を知るようになったのは、小学校5年生の時。地元習志野市に、初めて少年少女合唱団ができるというので、母親に半ば無理やり勧められて入ったのでした。そこでの初代の指揮者として、子供達の指導に当たることになったのが、同じ街に住む八尋先生ご夫妻でした。そこでは八尋和美先生が指揮、恵美子先生がヴォイストレーナーとSopのソリストという環境の中で歌っていましたが、その後変声期が来て、子供の合唱団では歌えなくなってくると、同じような境遇の「少年少女合唱団のOB」たちを集めて、八尋先生の自宅の練習室で歌うようになりました。「習志野室内合唱団(NKC)」などと名前もつけて、年1回地元の公民館で演奏会もしていました。その後もメンバーの入れ替わりはありましたが(現在「劇団四季」で大活躍している石丸幹二君もメンバーに加わっていました)、常に10人位の人数で、週1回八尋先生の自宅で小人数の合唱を楽しむという活動を続けていました。

私が初めて横浜合唱協会(YCS)の中に身を置いて歌ったのは、今から18年前、YCSの「合唱の歴史連続演奏」シリーズ終盤の第21回定演、モーツァルト「レクイエム」の時でした。八尋先生から、手伝いという形で一緒に歌ってみないかと勧められて、YCSの合宿から演奏会にかけて参加するようになったのだと思います。当時私は高校2年生。私の母校は、その頃は千葉県内では常に合唱コンクールで金賞を取っていた実力校で、私も1年生の途中からその合唱部に加わっていました。部員は50人ほどいて、それが私にとって初めての本格的な混声合唱だったのですが、それまで八尋先生の指導しか知らなかった私としては、どうも高校の合唱団の歌い方は、何か無理をしているようで、なじめないものを感じていました。

YCSの練習にテノールとして初めて参加した時、まず感じたのは、「世の中にはこんなに素晴らしいテノールの合唱があるのか」という驚きでした。当時YCSのテノールには万年さんや柴田さん(柴田(寿子)さんの旦那様)といった人達がいて、高音でも全く無理なく伸びやかに歌っており、当時から人数こそ少なかったのですが、実にきれいで安定した響きを保っていました。それは、それまで私が体験してきた小人数の合唱や、高校の合唱ともまったく違う、一種のカルチャーショックでもありました。他パートもまた同じように素晴らしく、合唱団全体としても実に柔らかい歌い方でまとまっていました。この歌い方の柔らかさは、まさに八尋先生の合唱の神髄とも言うべきものでした。

それ以来、YCSの演奏会には、手伝いと称して一緒に歌うようになりました。まず合宿から参加し、以降演奏会まで、毎週末には学校が終わってから制服のまま横浜まで行き、YCSの練習に参加するというパターンの繰り返しでした。横浜までは遠く、帰りも遅くなるし、大変な生活でしたが、何よりこの合唱団で一緒に歌えることが楽しみで、それは受験生になっても浪人しても途切れることなく、大学を卒業するまで続きました。そして私にとって、この頃の演奏会の中で最も印象に残っているのは、85年12月のバッハ「マニフィカート」の演奏会です。この時の演奏は、クリスマスのための挿入曲の入ったもので、合唱、オケ、ソリストともに素晴らしく、最後の「Gloria」では、自分で歌いながら、全身に鳥肌が立つのが分かりました。それまでずっと合唱をやっていて、初めての経験でした。今でも私は、この時の「マニフィカート」が、YCS史上最高の演奏ではないかと思っています。

(会員)

90年代の歩み

堂崎 浩

YCSにとって1990年代は、「新たなる出会い」の10年であったと思います。

まず最初は1990年12月の第33回定演「ロ短調ミサ」の時の事です。本番間近になったある日、当時はゲヴァントハウス合唱団の指揮者およびソリストとして来日予定であった、かのG.C.ビラーさんが突然YCSの本番を八尋先生の代わりに振って下さる事になったのです。降って湧いた話に考える余裕もなく、演奏会チラシの刷り直しや、リハーサル日程の変更に右往左往した事が当時の企画の議事録にも残っています。この時のビラーさんとの出会いが今日のYCSの発展につながる重要なきっかけであったと思うと誠に感慨深いものがあります。

それと前後して我々が出会ったのは、他ならぬ「YCS2000年ビジョン」などという我が雀部代表の壮大なる提案でした。90年4月から約一年半に渡り検討を重ね、YCSの目指すものとして技術・運営の両面から10年後の理想像を描いたものを、91年12月の定期総会に諮り承認されました。それを受けてまず実行された施策として、練習日の変更とヴォイストレーナーの追加が挙げられます。それまで毎月第3週だけは日曜日の午後に練習を行っていましたが、会員の出席率向上策の一環として92年度からはすべて土曜日の夜に変更されました。そして、それまでヴォイストレーニングは通常練習の裏番組として別室で行っていましたが、アンサンブル練習への集中を目的に別枠設定となり、また技術向上策の一環として男声のトレーナーを追加する事になり、八尋先生のご紹介により小林先生に新たにお願いする運びとなりました。体と発声のメカニズムを図に描いて分かり易く説明された後、発声に必要な各種の筋肉を鍛える様々な体操を教わりながら、良い声を出す為には一から体作りをやり直さねばと痛感させられたことを思い出します。その後、95年に黒木先生(98年まで)、96年に木島先生、99年には佐野先生と順次トレーナーの充実が図られ、当初からお世話になっている松尾先生を含めて現在の4人体制に至っています。

又、通常練習の時間外の催しとしてもう一つ加わったのが94年から始まった「バッハ勉強会」であり、メンバーの有志が一日講師となり自らの手で教材の制作やバッハ研究家著書の翻訳を行い、曲の解釈や作曲の背景について発表すると言う、これぞ2000年ビジョンで掲げる「こだわり」の証明であり、最近では徐々に参加者も増え、行事も定着してきました。

次に90年代で特筆すべきはやはり海外からの参加者との出会いについてです。ドイツからBraumann氏('91.9〜'92.2)とHagen氏('93.9〜'94.11)、アメリカからSwitzerご夫妻('91.9〜'95)、韓国からは黄氏('93.5〜'93.12)と、とても国際色豊かな時期がありました。特にBraumann、Hagen両氏との出会いは、後の演奏旅行を実現させるきっかけとなり、90年代のYCSの行方を決める大きな出来事であったと思います。

さて90年代も後半に入るといよいよYCS創立以来初の企画であるドイツ演奏旅行('97年8月)に向けての活動が始まりました。企画当初のアンケート調査では参加希望者は40名程度でしたが、ビラーさんを招いての「ヨハネ受難曲」('96.2定演)を前後して徐々に皆の意識が盛り上がり、結果的には70名(約9割)の参加となりました。そしてそのドイツ(ライプツィヒ聖トーマス教会)での演奏体験によって、我々がそれまで歌ってきた「バッハ」が本来はどういう場面でどんな響きで歌われていたのかを初めて知る事ができたのです。それはまさに「本物のバッハとの出会い」と言えるでしょう。

その後YCSは'98年に何と「フランス語」と出会い、2000年には「現代音楽」とその作曲家(ブロイティガムさん)に出会うことになります。ドイツ演奏旅行を前後して会員も一段と増え、八尋ファミリーである早混出身者の入会も多数あり若返りが計られました。現会員(70数名)のうち、'90年代に入会された方が約50名いらっしゃいます。YCSはこの'90年代に50名の新入会員と出会った事になります。これはYCSにとって'90年代の一番大きな「出会い」だったのではないでしょうか。

この先2010年に向けてどんな「出会い」が待っているのでしょうか。

いや、「出会い」はやって来るものではなくて作るものです。

他人事ではありません。皆さんの力を結集して2010年のビジョンを作り上げましょう! 

(会員)

至福の時間

佐久間 貴美

横浜合唱協会は今、目覚めの時を迎えようとしている。

次の定演で歌うアカペラの曲の練習が始まってそんな息吹きを感じとっているのは私だけではないはずだ。入会する前に聴いた定演では合唱はなんとなくまとまっているものの薄いヴェールがかかっているみたいに客席まで音楽が伝わって来なかった。ただその声は作られたものでなく自然な感じがして好感がもてたのを憶えている。

横浜合唱協会に入った当時の私は会社勤めに疲れ、ストレスのあまり本来の感受性を失いつつあった。7年間閉ざしていた音楽を再び始めようとしたのは、もうこれ以上もたないという臨界点に達しつつあったからだ。それゆえ週に1度合唱で歌うことはこの上ない歓びの瞬間だった。歌うとき、私たちはすべての悩みやしがらみ等から自由になれる。

だが最初の頃は長い間使わなかっった喉では思う通りに歌えるはずもなく自分の歌声にがっかりしたが、音楽の中に入っていくとそんなことは忘れてのびのびと歌った。いや、歌いたかったのだ。この時間を生きないと他に本来の自分を取り戻せる時間がなかったからだ。

しかしそんな強い思いは現実とのギャップの前に新たなストレスを生むことになった。自分が歌う大きな声がまわりから孤立しているように思えて、なるべく目立たないように音量を抑えてまわりの響きに自分の響きを合わせようと試みた。その結果は呼吸が浅くなり歌っていても少しも楽しくなくなってしまった。

でもそんな試みは根が単純なのか長くは続かなかった。声をそろえるといっても所詮人の声はまちまちでそれぞれに違う美しさをもっているはずなのに、カメレオンみたいに人の声に自分のカラーを合わせていたのでは一人前の声にはならない。女一匹、自分の意志で横浜まで歌いに来ているんじゃないか、自分を全開にして音楽せんでどないする!と自らを戒め再び歌うことにした。

練習から帰る道すがら、私の役割は”歌うこと”と独り心に決めた。それからは穏やかに集中して歌をうたうことができるようになった。不思議なことに人に合わせようとしていたときよりも自分の歌をうたっている方が隣の人の歌う声がよく聴けるようになったし、他のパートとのハーモニーを感じとれるようになった。

先の定期演奏会で横浜合唱協会の演奏は今後の飛躍を予感させた。特に終曲合唱で私は歌いながら隣の人だけでなくそのまた向こうからも多くの人が発するIch will のエネルギーを感じたのだ。きっと客席まで届いていたに違いない。あの時のエネルギーを1回1回の練習において発揮していくならば横浜合唱協会はすばらしい合唱団になるだろう。練習の時間も本番も同じ音楽を奏でる“至福の時間”であることには変わりないのだから。

(会員)

資料でたどる90年代

◎演奏会の出演者数・分析表
バッハの大曲1回目
(人数)
2回目
(人数)
3回目
(人数)
3回の合計
(人数)
3回の平均
(人数)
マタイ受難曲
(74年・78年・89年)
81727422776
ヨハネ受難曲 
(74年・86年・96年)
57687019565
ロ短調ミサ
(77年・80年・90年)
67707421170
クリスマス・オラトリオ
(73年・87年・99年)
57706919665
 26228028782969
 30年の平均
(人数)
5年の平均
(人数)
10年の平均
(人数)
70年代前半 67 
70年代後半/右側は70年代 6465
80年代前半 56 
80年代後半/右側は80年代 7063
90年代前半 59 
30年総計/90年代後半/右側は90年代646965

☆演奏会の出演者数・分析コメント(藤井)

  1. 30年を平均したら64名でステージを持ってきた
  2. 最も少なかったのは、84年メンデルスゾーン47名
    (オケ付きでチケット負担もキツカッタ!)
  3. 最も多かったのは、74年マタイ受難曲の82名
    (「横浜でマタイを」が初期の一つの目標であった)
  4. この後は会員数低迷
    (2年後のヨハネ受難曲でも57名と60名に達せず)
  5. 74年マタイ受難曲(82⇒67名)、80年ロ短調ミサ(70⇒52名)、90年ロ短調ミサ(74⇒56名)と大イベント直後は急減 
    ⇒ この法則は、「マルコ後」に当てはまらないよう祈ってます!!!
  6. 80年代・90年代共通して、「前低後高」(前半5年は低調、後半盛り上がり)
    ⇒ この転換点に位置したのは2度とも「ヨハネ受難曲」(有力若手も加わり)
  7. 30年間にバッハの4大大曲は各3回づつ演奏
    (YCS旗揚げとなった、1970年のヨハネ受難曲を除いて)
  8. 4大曲比較ではやはりマタイ
     マタイ(76名)>ロ短調(70名)>ヨハネ・クリスマス(65名)

特別寄稿

異端からの発信

森 一夫

横浜合唱協会創立三十周年を心から御慶祝申し上げます。

貴団との出会いは、三年前の一九九七年の事である。八尋先生からドイツ公演の話を持ちかけられた時、正直言って半信半疑で、驚天動地の心地がしました。先生の音楽の正統的洋楽の厳しさと優しさ、繊細な感性と情熱的な音楽性を考えると、とても理解し難い依頼のように思いました。私が二期会合唱団から東京混声合唱団に移籍した当時、コンサートマスター兼トレーナーをなさっていた先生に、三ヶ月間の厳しいトレーニングをして頂きました。その後病気療養のため数年間の休団がありました。復団してからは東混の指揮者として活躍するようになりました。先生のアンサンブルとピアニッシモの音楽に痺れたものでした。

私も東混の一員として、間宮芳生作品や、池部晋一郎、湯浅譲二、一柳慧、三好晃、柴田南雄作品等の初演を通して、独自の表現を求められる様になり、東混の中では次第に異端視される様になって行きました。

間宮芳生作曲「コンポジション第五番・鳥獣戯画」の新聞評で、畑中良輔先生が、「類稀なる個性の持ち主──」と書かれてからは、キャラクターテノールというレッテルが貼られ、現代音楽の初演等で外部出演も多くなりました。が、心中では異端視される懸念が強く、とても歯痒い思いをしたものである。

その後、柴田南雄作品の中でも、「万才流し」、「追分節考」、「往生絵巻」等の作品を通して、演者という自覚が芽生えてきて、自分の表現力の可能性を求めて、瑣末な声は聞き流す事が出来るようになりました。

そんな私を受け入れ拾ってくれた八尋先生の意図を、私は初め理解し難いものに思えてならなかった。しかし、聖トーマス教会で歌えるという魅惑は私をとりこにしてしまいました。たとえ異端であっても自分しか表現出来ない音楽があるに違いないと思い、快諾する以上に進んでお願いしたのである。

人には各々に表現の領域がある。自由で創造的な地平に立って、大空に天翔る魂の翼があるはずである。

生来小心者の私にとって、音楽は巨大な異形のものであった。それに立ち向かうには気力しかなかった。津軽の寒村から上京して今日まで、音楽的未熟さを乗り越える気力は、文学、絵画、音楽、そして広範な文化や芸術に対する憧憬であった。感動と驚嘆は私を触発し、勇気と気力を育んでくれたのである。

貴団との初めて練習に参加したとき、こんな私を温かい眼差しで迎えてくれた皆様の好意を忘れることが出来ない。ドイツ公演の夢の実現、オプショナルツアーの楽しかった想い出の数々は、私の心の糧であり生涯の宝である。筆絶しがたい思いである。トーマス教会礼拝でバッハの作品や数々の曲を歌えた感激が今も忘れられない。堂内を充たすオルガンと人声の荘厳さに感動しました。バッハ像の前で飲んだ憩いのコーヒーも忘れられない思い出である。

タールビュルゲル「夏の音楽祭」の公演は感動的であった。会場のクロスター教会は、古くからベネディクト修道会の修道院として隆盛を極め、現在は村の教会として大きな役割を果たしているという。その素晴らしい音楽空間に羨望の念を抱いたものである。

横浜合唱協会の歌うバッハ、メンデルスゾーンは、緻密で力強く立派な演奏であったと思う。林作品の抒情も美しく繊細で、清冽な感動を覚えました。しかし、私の歌った間宮作品の数々が、タールビュルゲルの人達にどう受け入れられたか心配でならない。

「杓子売唄(しゃくしうりうた)」の唱歌(しょうが)や、「コンポジション一番」の掛け声、祝詞風、民謡風の歌唱は、気力に頼った剥き出しの個性だけだと思われたのかも知れない。それが異端からの精一杯の発信だとしても、異邦の人達の耳にどの様に聴こえたのかと考えてしまうのである。

戦争の悲惨さを体験し、長い長い東西の分断からやっと解放された人達の、音楽に対する真摯な耳がとらえた「日本の音」が、彼等の情感を潤す程のものであったかは解らない。だが、会堂を埋めつくした聴衆の、堂を揺るがす程の万雷の拍手に、東洋と西洋の人の心が一つに結ばれたことを印象されたのは確かである。公演は大成功であった。

タールビュルゲルの谷間の草叢が露にぬれて、私達の音楽の余韻を飲み込んで光っていた。

横浜合唱協会の新しい二十一世紀への地平が、光り輝いて益々発展する事を、心から御祈念申し上げます。

「名古屋にて……考えたこと」

渡邊 成

横浜合唱協会YCS創立30周年おめでとうございます。私は1999年1月に入会したばかりの会員ですが、こうした短い期間にも関わらず大変お世話になっております。

さて、私は大学時代から合唱を始めましたが、転勤して名古屋に来てみると、今まで恵まれた環境で歌ってきたと改めて感じます。学生時代の同志社学生混声合唱団CCDでは榎本利彦先生(大阪音大教授・東混創立メンバー・八尋先生のお友達)と本山秀毅先生(フランクフルト音大合唱指揮科卒・大阪音大助教授)の指揮で歌い、早稲田大学混声合唱団との交歓演奏会では八尋先生の指揮で歌い、とかなり贅沢でありました。

そんなわけで、上京後しばらくは歌う機会も少なく、かなり辛かったものです。もちろんYCSのことは以前から知ってはいたのですが、当時の住まいから横浜までが遠いと思って、すぐには練習見学にも行きませんでした(後悔しています)。しかしゼレンカが縁となり、改めて八尋先生指揮で歌いたいという気持ちも抑えられず、入会しました。

こうして一年ほど歌ってきたわけですが、常々思ったのは「非常にもったいない」ということです。すなわち、八尋先生をはじめとする先生方のご指導、良い意味で非常にマニアック(!?)で熱心な会員の皆さん、これだけのものがあれば、「YCSはもっと楽しく素晴らしい演奏ができるのに」ということを強く感じてしまうのです。

もちろん私達はプロではありません。学生ほど多くの練習時間が割けるわけでもありません。しかし、私達が今まで歌ってきたという経験は、少ないかもしれませんが確かにあります。素人とはいえ音楽的な技術や知識も少しは持っています。先生方のご指導も頂いています。このように私達は恵まれた環境で歌っているわけです。これを今以上に生かしていけば、YCSはさらに楽しく素晴らしい合唱団になっていくと私は思っているのです。

21世紀を迎え、YCSは今後どういった活動を目指していくのでしょうか。より高いレベルの演奏ができる合唱団を目指すのか、お客様に来て頂ける演奏会の開催を目指すのか、演奏会以外での活動も視野に入れていくのか、様々な形での活動があると思います。しかしどんな活動を目指すにしても、現在のYCSの恵まれた環境を「当然のもの」とは考えず、改めて見つめ直し、それをさらに生かしていくことが、今後のYCSの活動を決定していく基礎になっていくような気がします。

転勤で名古屋に来て、再び歌う機会が少なくなったストレス(?)からか、抹香臭い文章を書いてしまいました。

最後になりましたが、今後もYCSが一味違った活動をする楽しい合唱団であり続けることを祈念しつつ、この文章を終わりたいと思います。ありがとうございました。

2000年9月

(維持会員)

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