Yokohama Choral Society
-横浜合唱協会-

2000年30周年記念誌web版

II. 30周年記念演奏会

2000年8月6日東京における
マルコ受難曲演奏会に寄せて

八尋和美氏と横浜合唱協会のメンバーが私の提案を受け入れて、マルコ受難曲とそれにつけたフォルカーブロイティガムの福音音楽を2000年のバッハイヤーに一つの代表作として取り上げたことは、評価に値するものです。それは合唱団の指導者とその歌い手である団員の方たちがバッハの作品と真摯に取り組んでいることをまさに証明しています。と言うのも、マタイ受難曲やロ短調ミサ曲の演奏会を行なう方が、むしろ誰にでも受け入れられるからです。私は聖トーマス教会合唱団との演奏旅行体験から、日本では何よりもマタイ受難曲を、という風潮があるのをよく知っています。

日本でマルコ受難曲を演奏することには大きな意義があります。マルコ受難曲には他の二つの受難曲作品と比較すると「現代的」に感じられるバッハの音楽が存在します。その音楽は「原曲」として作曲されたものでもなく、むしろ主に葬送頌歌のパロディですが、よく知られているクリスマスオラトリオのポピュラー性と同様の効果が得られるかもしれません。そこではキリスト教の儀式と結びついた音楽が、通常の社会生活の一部となっているからです。世俗カンタータでは同じ効果は得られなかったでしょう。

またブロイティガム版補作部分にも特徴があります。斬新で室内音楽的なこのバッハの第3番目の受難曲は年々その存在が認められてきています。バッハのレチタティーヴォ部分は復元が不可能ですが、20世紀の音楽を取り入れ、再びバッハの音楽と出会う事ができました。その根底にあるものは、共通した信仰心です。

"Crucifixus etiam pro nobis sub Pontio Pilato; passus et sepultus est."
「ポンティオピラトのもと、私たちの為に十字架にかけられ、苦しみを受け、葬られた。」

2000年7月

ゲオルグ クリストフ ビラー
(トーマス・カントール,記念演奏会指揮者)
(齋藤訳)

(原文)

 

 

2000年8月6日のマルコ受難曲演奏会に寄せて

横浜合唱協会と一緒に音楽を作りあげる事ができ、素晴らしい喜びを満喫することができました。

それはこの作品が様々な形で要求している事を、皆さんがきちんと練習してくださっていたからばかりではありません。また調和の取れた響きと非常に整然とした合唱団の姿勢が、私たちライプツィッヒの人間にとても印象的だったからというばかりでもありません。

皆さんがバッハと新しい音楽を対峙させようと果敢に挑み、取り組んでくださった事は何よりも絶賛に値するものなのです。

横浜合唱協会の皆さんがまたドイツへ旅行され、私たちの文化に触れられるときに、少しでもお手伝いする事ができればと、私自身切望してやみません。

フォルカー ブロイティガム
(マルコ受難曲補作者,記念演奏会オルガニスト)
(齋藤訳)

(原文省略)(そのうち追加予定)

 

 

 

限られた練習時間などの紆余曲折がたとえあっても
正しい音が遅れずに歌えますように
心からお祈りしています。

     2000年8月

感謝をこめて   マルティン ペッツォルト

 

コングラチュレーション!
オールザベスト!
いつまでも素適な合唱団でいて下さい!

 

(記念演奏会ソリスト)
(齋藤訳)

(絵省略)(そのうち追加予定)

 

 

ご挨拶

栗原 浩

30年    おめでとうございます。

8月の演奏会の折りにレクチャーコンサートの講師として参加させていただいた者として、心からお祝い申し上げます。

バッハの音楽を機縁に、メンバーの何人かの方々を以前から存じ上げ、また演奏会を何回も聞かせていただいておりますので、これまでも身内のように感じられる合唱団でした。

今回の催しで楽屋の部分にも少し触れさせていただいて思ったことは、皆さまのチームワークと申しますか、演奏会という目的に向かって活動なさった全員がこの会を支え、またその気持ちが音楽の面にも結晶したのであろうということです。音楽といえば日頃の八尋先生その他の方々のご指導とご努力、また今回の演奏会について言えばビラーさんの指導力がものを言ったことは言うまでもないでしょう。しかし心を一つにして歌い、また働いた皆様の頭上に栄光が輝いたことは事実です。

合唱団も一つの組織ですから内部の方々にすれば、そして今後を考えれば克服しなければならない課題は多々あることでしょう。それにもかかわらず言わせていただけば、あれだけ熱心に練習に出席し、また事務的なことにも進んで協力しておられた多くの若い方々とその気持ちこそが合唱団の財産なのです。加えて雀部さんや藤井さんなどすぐれた企画力と指導力をもつ方々おいでになるのですから、一つのピークとなった30年目を節目として、さらに次の段階へ進む体制は整っているように思われます。

皆様、自信をもって、また謙虚に未来に向かいましょう。

私が関与させていただいた場面で示された皆さまの熱心さとご好意を私は忘れることがないでしょう。今後もお役に立つ機会があればお手伝いすることもあろうかと考えております。

重ねて申し上げます    30年間の実績、おめでとうございます。またこれは将来のための貴い一里塚でもあるのです、と。

この誌面でご挨拶する機会を与えて下さったことに感謝致します。

(2000.9.22)

(記念演奏会講師)

 

 

創立30周年・バッハ没後250年記念演奏会を終えて

藤井 良昭

序唱

創立20周年記念の90年12月1日神奈川県立音楽堂、若きビラーさん指揮によるバッハ「ロ短調ミサ」の感動が会場を包み込んだ。トマーナ魂を知らされたこの感動は想像以上のものであり、余韻は通奏低音のようにその後われわれの活動の中で鳴り続けた。これが契機となり、ブラウマン、ハーゲン両トマーナOBの来日、92年ビラーさんトーマスカントール就任、96年「ヨハネ受難曲」客演指揮、そして彼らにお世話になったドイツ演奏旅行と続く、恵まれた90年代が実現した。

トーマスカントール就任後初来日となった96年2月の客演曲目は絶対「ヨハネ受難曲」と決め込んでいた。バッハがトーマスカントール就任後最初に作曲・演奏した受難曲であり曲の持つエネルギーと力強さが相応しく思えたからであった。ビラーさんからは「第2稿にて」という注文は付いたが願いは受け入れられ、「ヨハネ受難曲」を指揮してもらえることになった。来日公演は2月7日(水)から始まり、15日(木)東京芸術劇場にて終了、トマーナとゲバントハウスを帰した後、ビラーさんとソリストが残り共演者として加わったお蔭で、豪華キャストでの「ヨハネ受難曲」が実現した。この折練習以外にも齋藤さんの通訳でビラーさんのいろんな話しが聞けた。なかでも17日(土)大雪の合唱練習での食事休憩時に「バッハのマルコ受難曲にドイツの現代作曲家が曲付けした、バッハと現代曲が対峙する素晴らしい曲があるんだ」との熱っぽい語りが強く焼きついている。帰国後かなり経ってビラーさんから届いたそのドイツの作曲家・ブロイティガム手書きの楽譜を見たが、とっつき難そうだし合唱部分も少ないとあって正直言って、次は絶対「マルコ受難曲」とまでは誘惑されなかった。

97年夏ドイツ演奏旅行はビラーさん指揮によりトーマス教会で歌わせてもらい、98年2月は東京J.S.バッハ合唱団の客演でビラーさん来日と出会いの場が続いた。この時「2000年バッハイヤーに相応しいものを」と改めて申し入れたが、前述の「J. S. Bach /V. Brautigam:マルコ受難曲」と答えるビラーさんの2年間変わらない思い入れの堅さにこれはもう他は無い、次は絶対「マルコ受難曲」と決意したのであった。恵まれた90年代の体験が「創立30周年、バッハ没後250年が重なる2000年には、横浜合唱協会ならではと言える意義ある演奏会を持とう」という合唱団の総意を生み、日本中が「マタイ受難曲」「ヨハネ受難曲」に集中するなか、敢えて「マルコ受難曲」に取り組む活力となった。

2度の危機

その気になって「さあ会を盛り上げていこう」との矢先の98年5月に、ビラーさんから「東京J.S.バッハ合唱団との合同演奏会に変更しては」との打診が東京J.S.バッハ合唱団を経由して入った。「2重合唱のマタイ受難曲かレーガーを」との提案であった。「マルコ受難曲を押し付け過ぎてもとか、YCS単独での招聘の財政負担の重さを気遣った」ビラーさんの提案のようであった。しかし、両合唱団を合わせると200人となる。先の東京J.S.バッハ合唱団「ヨハネ受難曲」では、「120人は多すぎる80人に絞って欲しい」と直前に告げられ、彼らは出演者を止む無く1部と2部に分けて対応したことや、練習日も指導者も違う両団体が短期間だけ合同してもお互いに不完全燃焼で終わるであろう危惧を思い躊躇していた。忙しいビラーさんに東京、横浜から別々に問い合わせを出したのでは応じきれないであろうと考え、日本側で一本化した結論を提案する道を選んだ。

7月に雀部、齋藤、藤井が出向き、東京J.S.バッハ合唱団との打ち合わせを有楽町で持った。彼らも同じ危惧を感じており、また、「マルコ受難曲」へのビラーさんの思い入れ、われわれの決意と取り組み進捗に理解を示してもらえ、当初案通りとすることで折り合いがつき、ビラーさんからもそれで結構との了解が得られた。こうして今回の記念演奏会とレクチャーコンサートが陽の目を見たのだが、このような過程で示された東京J.S.バッハ合唱団の理解が今回の成功の大きな礎となったことを忘れてはならない、その上、当日は多くの団員の方々が来場下さり、本当に厚く感謝している。

もう一つの危機はオルガンにからむ会場問題であった。演奏会日程は2000年8月6日(日)で選択の余地はない。打診していたみなとみらい大ホールが「アジア音楽祭」のため使用不可の正式通知を99年2月に受けていた。こうなると県立音楽堂にすがるしかなく、5月の連休に雀部さんと音楽堂に出向いて特別使用の内諾を得安堵、10月17日(日)東京混声合唱団の演奏会で来日したビラーさんとの打ち合わせに臨んだ。演奏方法、独唱者、楽譜の確認、ワーキングビザやギャラ、渡航費、契約書、レクチャーコンサートのコンセプト、モテット「イエスよ、わが喜び」追加提案等気持ち良く応じてもらえ順調に進んだ。しかし、会場が県立音楽堂でパイプオルガンが無く、電子オルガンの持ち込みとなることにだけは「パイプと電子の音は違う」と頑として譲らない。「僕のギャラを削ってでもパイプオルガンを」との言葉が決定打となり変更への宿題を背負った。音楽堂にミニ・パイプオルガンを持ち込み組み立てること、横浜にこだわった別の会場探し等を試みたが現実的な解が得られなかった。

困り果てて東京に広げるしかないとの思いで方々電話したところ、東京芸術劇場が「メンテナンスが8月後半になり今のところ8月6日は空いている。今日(10月31日であった)今月分を締め切るので、今申し込めば競合は無いので、委員会で承認されれば貸せる」との返事。「今から行きます」と即答し、日曜の夕方を割いて池袋へ飛んでいった。そこまでしなくてもとの企画メンバーの反対の声を説得し、経緯と助成金等努力してチケットノルマ6万円を越えないようにする事を会員に説明し、さらに、県立音楽堂へもお詫びを入れ何とか東京芸術劇場が実現した。

本番に向けて

ドイツ演奏旅行を除くと、初の横浜以外での演奏会、しかも東京芸術劇場の大ホールにドイツから共演者を招聘とあって、まさに30年の大イベントになってしまった。これは大変と気合を入れて、1年前となる99年の夏休みから具体活動を開始。マイルストーンを設定してそこまでに必ず終えてしまうよう進めた。夏休み中にボーカルスコア制作、秋には助成金申請手続き完了、明けて3月ビラーさん来日までに詳細決定。4月予約開始、5月よりチケット販売、5月合宿までに曲仕上げ、6月中にチケット1000枚販売、7月新聞掲載折衝、レクチャー資料作成、1800人の観客動員数読み。

今回のボーカルスコアはバッハ譜とブロイティガム手書き譜を演奏順に切り貼りした合本であり、買ってくれば済むのとは違う手間を費やした。11月から暮れまでは、毎日曜日が助成金申請書作成。多々あるメセナ募集資料から、趣旨が近く可能性のあるものを選んで、アサヒビール芸術文化財団、三菱信託芸術文化財団、芸術文化振興基金、花王文化・科学財団、ローム ミュージック ファンデーションと締め切り順に毎週1財団づつ応募。手は尽くしあとは天命を待つの境地。12月には予定していたヴァイヘルトさん(バス・イエス)来日不可の知らせが届いた。オーケストラは李善銘さんを通じて、会員からの信頼も厚くなって来た東京バッハ・カンタータ・アンサンブルに依頼。

さて、2000年春には財団から思惑以上の朗報が相次ぎ、1財団を除きすべて応えて頂けた。これには入澤さん、中野さん等の尽力もあったことを紹介しておきたい。こうして財源の見通しもつき安心して、3月ビラーさんトマナコア演奏会の来日を迎えた。

3月8日(水)トマナコアは日本滞在中唯一の休暇とのこと、ディズニーランドや鎌倉から戻って来た子供達が目立つホテルメトロポリタンで、ビラーさんは申し訳ないがわれわれと打ち合わせ。東京芸術劇場になった変化点、パイプオルガンの選択、レクチャーの進め方(栗原さんが話す内容骨子の齋藤さん独訳を見せて)等を確認した。ビラーさんからは、合唱小アンサンブル箇所、リュート2本追加、イエス独唱者は小原浄二さん等の指示があり、大枠は詰めたが、詳細は8月来日後に残された。

ここからは演奏会担当が主導で動き出す。予約チラシは、バッハ誕生日3月21日から聖金曜日4月21日にかけて多く開かれた「バッハ演奏会」で配布。そのチラシ配布後すぐに問い合わせ先になっていた我家に電話や電子メール注文が入ったのには驚いた、かつ、大きな励みになった。DMやチラシ配布も通常の何倍もやった。新聞社にも意気込みが通じて朝日・読売、神奈川新聞が記事で取り上げてくれた。2000人収容の大会場を埋められるか心配も多かったが、手を尽くした効果がじわじわと出て来て結果的には目標販売枚数を達成し当日は満席であった。

7月に入りラストスパートは馬力が勝負。演奏会担当に多くの助っ人も加わる。字幕、レクチャーコンサート配布資料、全指定席対応、朝日新聞広告等YCS初の試みが多々あった。予約・外部委託・等会員外でのチケット販売のウエイトも今回は格段に重かった。

そして当日は、受付、楽屋管理、舞台スタッフ等に旧会員の谷口さんと齋藤さんご主人の支援を受けて総力戦で乗り切った。

『蒔かぬ種は生えないし、汗水流したことは報われる』満員の東京芸術劇場の舞台で、感慨を持ってこのことを再認識した。これは技術面にも当てはまり、コラール特訓を初め、注力したこと・手を打ったことは成果として実を結んでいたことが実感できた。

バッハ/ブロイティガムの「マルコ受難曲」

旧会員の今村さんから演奏会後に寄せられた感想の中に、「マルコ」は「マタイ」や「ヨハネ」とどこが違うのかと曲を聴きながら考えた。(中略)「一回聴いた程度では私には良くわかりません。ただ、198番が元になっているというのがヒントかも」と述べられており、われわれの演奏会を聴いて問題意識を掘り下げている姿勢に感心、栗原さんのレクチャーを参考に触れておきたい。

中略で今村さんも述べているように、「マタイ」と「ヨハネ」はその福音書の性格を反映してバッハの描くイエス像にも明らかな違いが見られる。「ヨハネ受難曲」のイエスは第2稿を除いて、まこと神の子として賛美(冒頭合唱)で始まり、捕われ、十字架に架けられ、「すべて成し遂げ、勝利をおさめ(第30曲)」、そして葬られ(最終合唱)、最終コラールで復活するまでが激しい合唱を多用して劇的・叙事的に描かれる。

それに対して「マタイ受難曲」のイエスは、十字架を背負い人の子として登場(冒頭合唱)し、捕われ、十字架に架けられ、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか(第61曲)」と叫び、人の子として葬られる(終曲合唱)までが、心打つアリアを多く有して叙情的に描かれる。

「マルコ受難曲」はと言えば、イエス像は共観福音書である「マタイ」と同じである。「さあ、イエスよ、あなたの苦しみに向かって行きなさい(冒頭合唱)」と、人の子として十字架に向かい、ひと自身の内に葬られる(終曲合唱)イエスである。そして受難物語は、僅かな挿話の有無を除けば「マタイ」と同時進行し、アリアとコラールは類似の段落に置かれている。

では「マルコ」「マタイ」の際立った違いを挙げると、「マルコ」はコラールが多く、アリア・群衆合唱が少ない、アリオーゾを持たない、第1部・第2部が均等に分けられかつ各部内とも明確な対称構造を有していることが挙げられる。このことから「マタイ」や「ヨハネ」とは違う第3の受難曲「マルコ」として、音楽面で劇的要素が少ない、規模はあまり大きくない、伝統的・客観的・均整建築的な性格が浮かび上がる。「マタイ」「ヨハネ」よりずっと多くを数える16曲に及ぶコラールが重要であるが、なかでも17世紀のルター正統派神学者で、バッハもその大著を読んでいたパウル・ゲルハルトの詞が4曲と作詞家で最も多く採用され主張の核となっている。言わば福音書の受難物語そのものを中心とした簡潔なコラール受難曲とでも呼べると思われる。

さて99年8月、手に入る唯一まとまった資料であるGustav Adolf Theill:"Die Markuspassion von Joh.Seb.Bach“をテキストとして「マルコ受難曲勉強会」を開始した。2000年春までに翻訳を終えて、印刷製本し5月の連休の読み物として会員に配布し、要約版をレクチャーコンサート資料として来場者に配布と目論んでいた。翻訳を引き受けた人たちの頑張りで前者は実行したが、後者は取りやめて栗原さんの書き起こした原稿とした。というのは、タイルの主張する「マルコ受難曲」1728年初演説が受け入れられていなかったり、ピカンダーの全テキストにかなり強引に音付けたりすることが、「余りに明白に文献学者の良心が、曲全体を維持しようとする願望の背後に退いているに違いない。(デュル)」との批判に該当するかもしれなく、資料として広く配るのは不適と判断したからである。

ブロイティガムのアプローチは、「文献学者の良心が許容し得る復元版」であるD.ヘルマン版を用い、復元不可能な福音書の受難物語を現代技法で作曲している。バッハ様式を模倣するのではなく、対比し対峙することを基本姿勢とし、それを音楽技法面だけでなく、演奏者の空間配置や簡潔化した現代訳聖書ドイツ語使用等も動員して、バロック音楽と現代音楽の対比と融合を試みている。これが1回きりで再演される事が少ない現代曲のなかでドイツでは120回も演奏されている鍵となっていよう。

このアプローチをビラーさんは、プラグラムに寄せられた言葉で的確に表現していて感心した。

『20世紀の音楽を取り入れ、再びバッハの音楽と出会う事が出来ました。その根底にあるものは、共通した信仰心です。(ビラー)』

おわりに

バッハの教会音楽は、アマチュア合唱団の演奏ペースでは一生かかっても歌いきれない膨大なレパートリーの宝庫である。われわれは、バッハの教会音楽であるカンタータや受難曲が『ルター正統主義であるライプツィヒの教会儀式のための音楽』でありながらながら、日本人のわれわれにも『共鳴、心の琴線に響く』ことをこの30年間演奏会で取り上げるたびに体験してきた。ギリシア・ローマに遡るヨーロッパの伝統を背負った宗教テキストに、人類が到達した至高の技法で曲付けされたバッハの音楽が、宗派や民族を越え、生きる喜びや苦悩、自身の生や存在を問い掛けるような普遍的な力を持っているからであろう。そして、指揮する度に『われわれを高みに導いてくれたビラーさん』への感謝と信頼の念が重なって、バッハ/ブロイティガム作品への思い入れや共感が、舞台のわれわれにも生まれたのだ。それ故に『バッハの重い伝統を担うライプツィヒの音楽家が、ルター神学の根底にあるイエスの十字架の問題との、現代における関わりについて提出した1つの提言であり、かつそれが東西の壁の崩壊以前、1981年に書かれたものであることに留意すべき。(栗原浩)』とのレクチャーでの指摘が心に響いた。

ビラーさん指揮の魅力の一つにイエスへの信頼する呼びかけがある。「Geh,Jesu,geh zu deiner Pain!さあ、イエスよ、あなたの苦しみに向かって行きなさい」この冒頭のイエスへの呼びかけに、90年のロ短調ミサ演奏で印象的だった、第1曲「キリエ、エレイソン」フーガテーマのキリエの呼びかけが蘇り痛く心打った。

もう一つの魅力はドイツ語の勢いを生かした力強いコラールだ。弟子たちがみんな逃げてしまったあとの第1部終曲のコラール「私はこの場所であなたの傍に立とう」との意志表明。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ぶイエスに対して、「神が見捨てたことはない」とフォルテで力強く呼応するコラール。ビラーさんの拍感の明確な指揮に引き込まれて、次々に現れるこれらのバッハのコラールに今回ほど愛着を覚えたことはなかった。

オランダ・ベルギー等ドイツ周辺で起こった古楽器でのバッハ演奏が全盛を極め、バッハの重い伝統を担う本家としてビラーさんの置かれている状況も厳しくなっているようだ。しかし、危機や苦境の時こそ新たな創造は生まれるのだ。「バッハ/ブロイティガム作品」に留まらず、バッハへの新たな挑戦をし、世界にそしてわれわれにも示して欲しい。今回もビラーさんのトマーナ魂は強烈に心を揺さぶった。舞台を21世紀に移すこれからの10年にも、その感動の通奏低音がわれわれの活動の中で鳴り続けることを祈らずにはいられない。

(会員)

 

レクチャーコンサートと通訳

齋藤 美沙子

マルコ受難曲演奏会の話が浮上し、具体化していく中でレクチャーコンサートの企画が進んでいった。通訳は君がやればいい、とビラーさんの一言。しかし、通常の練習とは比べられない、笑ってごめんなさい、という事だって許されない、とそれだけで緊張する。その上、レクチャーコンサートの進行シナリオを考えていただいたが、講師がどう話しを進めるのだろうかと不安材料は増えるばかり。

1999年10月、第一部にあたる栗原さんのレジュメを元に初回打ち合わせをしたが、第二部、三部のビラーさんとブロイティガムさんの部分は全くの空白。「7月のライプツィッヒ・バッハフェストが終って日本に来る飛行機の中で、内容を考えるよ。」とビラーさんは至って気楽におっしゃる。その内容に合わせて私が頭の中を整理するのに、たった2日か3日しかない、とまた悩みが増える。ブロイティガムさんは?とこれも心配の種。そもそもブロイティガムさんとは一度電話で今回の出演の件を確認した時に話をしただけで、どのようにお話をされる方だか分からないのも心配の種。

その10ヶ月後、ビラーさん達は無事に来日された。ホテルへ移動するスカイライナーの中、「ところで飛行機の中でシナリオは書けましたか?」とビラーさんに尋ねると、「まだ、これから。」とはなんともつれない返事。ブロイティガムさんはレクチャーコンサートのことを知っているのだろうか、と思いたくなるほど、のんきに車窓の人。

そして最後の打ち合わせ中、ビラーさんが何やら細々と書いている。あんちょこ?極秘メモ?と思いきや、レクチャーコンサートで使われる原曲との対比演奏の指定部分が数小節ずつ書いてある。ほら、ちゃんと書いてるよ、と言わんばかりに、あのちょっと無骨な大きな手が動く。「フォルカーもこういうの作らなきゃ。」というビラーさんの言葉にも、「フーン。」と御大ブロイティガムさん。

次の日ブロイティガムさんにレクチャーコンサート用のメモをあらためてお願いすると、それは音符ばかりの12音音列、これをどう解説するのだろうか。メモはできたが、通訳にとってはこれでは相変わらず空白に近い。

さて通訳といえば、ゲネプロでビラーさんの対比演奏の中で曲名を言われて日本語の対訳がすぐに出てこない事に気付く。資料を作る時にお手伝いもし、全く初めてではないはずなのに、正確に言おうとすると、しどろもどろ。曲の題名なんて?、そもそも歌詞の第一行目なのに、その訳は?と、頭の中で楽譜のページをめくるものの、何も出てこない。その上、いつもと話し方のペースが違い、訳の日本語を話すタイミングがつかめない。ビラーさんの言葉に、通訳の言葉が重ならないように気を遣うが、これがそのまま本番だったら、と冷や汗。私のタイミングが遅れると、ビラーさんもシビアな視線でこちらを向かれる。ゲネプロとはいえ、厳しい。栗原さんが傍でこれは本番用に原稿作らなきゃ、と心配されているのが手に取るようだった。本番直前に自信喪失、心拍数が上がるのが自分にわかる。

ブロイティガムさんは簡単に“Blabla blabla”(=などなど)と省略されたが、本番はどういう言葉で表現されるのだろうか?とこれまた不安はつのるばかり。

休憩中はサンドイッチ(だったかな?)をほお張りながら、栗原さんと資料の中から曲の題名の部分を確認。レクチャーの資料がどれほど有り難かったことか。普段の練習ではぶっつけ本番、準備も資料もなくてやっていることが、空恐ろしく感じられた。それを容認して下さっている団にあらためて感謝せずにはいられない。

ドラが鳴って、冒頭合唱で本番開始。いざとなるとどこを向いて話してよいのやら、と目線が目標を探し、直前に用意した資料を持つ手は震える。

第一部栗原さんの解説が、ぴったりと30分。かなり省略されたのか、メモをめくるスピードが速かったような気がする。

そして、ビラーさん、まずピアノの側に立って、話が始まった…、この話しはGPの時にはなかった、と一瞬緊張。聞き漏らしてはならない、長くなりませんように、と祈る。比較演奏になって手が震えなくなった。資料がお守りのようだ。徐々にいつもと同じ感覚になり、ビラーさんもちょっと気取っているかな、と思う余裕さえ出てきた。2冊の楽譜を抱えたメンバーもタイミングよく歌っている。歌えていいな、と羨ましい。集中力が途切れると途端に、ビラーさんがこちらを向いて言葉を繰り返される。すみません!と思う。

さて、ブロイティガムさん。彼は無理しなくていいよ、と至ってさりげない。マイクの前からピアノの前へと移動され、難しい事だけは言わないでと、そこで思わずまた祈る。12音音列はちょっと難しいけれど、関心のある人には興味深いと思ってもらえるように、と言っていらしたブロイティガムさん。彼の言葉が会場の皆さんにうまく伝えられただろうか。打楽器の紹介、そして12音音列を使った部分を演奏会同様にオルガンを使った演奏で終了。

内容も3部三様で、本番まで私には空白の多かったレクチャーコンサート。特にビラーさん、ブロイティガムさんの部分に関しては直前まで明確な形がなかった。そして本番の最中、形がない事をどのような言葉で表現するか、ブロイティガムさんに教えられた:“amorph” …この言葉は当分忘れられない。

実はこの単語、ブロイティガムさんが使われた言葉で、私にとっては未知の言葉。思わず困惑したが、ステージ中央で話をしているブロイティガムさんが、「訳さなくていいよ。」という素振りをされ、本番最中なので、思い切って省略した経緯がある。何を説明しようとされていたのだろうか?何が形がなかったのだろうか?これは後日ビデオを見てからはっきりさせたい、と考えている。

“amorph【gr.】adj.…はっきりした形のない”。

(会員)

 

練習過程を振り返って

魚本 一司

99年11月20日、記念演奏会へ向けての練習が、早くも前回演奏会の6日後にスタートした。その後、ビラーさんを迎えての練習までに、通常練習が31回、それに2日間の合宿と特別練習が1回行われた。

練習の過程を振り返ってみると、今回はいくつかの特徴があったように思う。

まず、31回の通常練習のうち6回を江上先生にご指導いただき、大変お世話になったことがあげられる。特に、3月までは一時期を除いてマルコを集中的に練習したのだが、最初に楽譜を見たとき一体どこを歌うのかさえよくわからなかったブロイティガム部の音とリズムと言葉をわかりやすく、また、バッハ部も含め、場面に応じた歌い方を熱心にご指導いただいた。さらに、まとめの時期の6月と7月にも1回ずつご指導いただき、先生のご指導なくしてはマルコの成功はなかったといっても、言い過ぎではないと思う。

次は、ハーモニーづくりを意識した練習に取り組んだことである。1月以降の通常練習では、主に私が担当させていただき、毎回、発声練習の時間を割いて、マルコのコラールを素材に、パート内の音の統一、ユニゾンや5度、3度といった和音づくりの基本的な練習を行った。また、4月から5月の合宿までの間は、Jesu meine Freudeを集中的に練習したが、その際、新しい試みとして、八尋先生にピアノ伴奏なしのアカペラ練習をお願いしたのも、その一環である。

個人的に、横浜合唱協会に対しては、人数の割に「鳴らない」合唱団だな、と感じていた。原因の一つは、ハーモニーがアバウトで、響きの効率が悪くなっていたのだろう、と思う。自分としては、合唱のサウンドを重視しており、「合唱団はハモってなんぼ」のものと思っているので、今回の和音づくりの練習は楽しくやらせていただいた。4月頃には合唱団としての音が少し「鳴る」ようになってきて、八尋先生のJesu meine Freudeの練習の中でも、吉野町のホール全体が鳴るという幸せな瞬間を、何回か経験できたような気がする。

また、今回は、Jesu meine Freudeの一部を小コーラスで歌ったり、レクチャーコンサートの合唱が小編成であったりしたため、6月以降、通常の練習の終了後、毎回、9時頃から該当者は居残り練習を行った。八尋先生にも2回ご指導いただき、該当者は、大分、自信をつけることができたのではないだろうか。

そして最後に、いつものことながら、斉藤さんのドイツ語指導には、ただただ敬服するのみであり、今回の演奏会に向けての練習に関しては、こうしたそれぞれの立場での取組が、分業的にある程度うまく機能したのではないかと思う。

(会員)

 

演奏会担当のまとめ役として

馬岡 利吏

★800万円の予算と多額のチケット負担

演奏会を担当してきて、私が一番優先し、苦労して来たのは「会員の負担を増やさない」こと。この為に今まで、出来るだけスリムな運営をしてきた。通常の演奏会では、会員のチケット負担は4万円を超えないことを目安とした。実際、最近10年位では同一規模の演奏会ではほとんど費用は増大していない。

ところが、今回は、横浜合唱協会としては異例の予算規模となってしまった。予算案を立てる際には、わかっていても、会員に5万円、6万円と負担が増える事には抵抗があり、言いようのない敗北感があった。

★休日返上(チケットが出来てこない!!)

当初、4月中旬に販売開始するつもりで、別の担当者に頼んであったチケットの発券依頼が行われていないことが4/中頃にわかり、大急ぎで準備し、チケットぴあと交渉、しかしチケットぴあ様は「発券は5/27以降になる」とのこと、ぴあでの発券を断念し、急きょ神奈川県民ホールチケットセンターに頼み、発券作業を進める事にした。ゴールデンウイーク直前の事である。県民ホールチケットセンターは東京芸術劇場の公演の発券は初めてで、担当の三橋さんらは座席データの入力などを1から全てを突貫工事で進めてくれた。私は県民ホールの作業を滞らせないように座席指定の情報を県民ホール用に作り替えたり、チケットセンターからのチェック依頼を速攻で確認して返したりと休日の予定を全て返上して泣きながら対応した。(三橋さん達は毎日夜遅くまで作業をしてくれて、夜11時頃に電話してもたいていは作業をしていました。)見通しが立ってほっと出来たのは5/6の夜でした。(連休はあと1日)。おかげで5月13日にチケットが配布できたのです。(感謝)

★集客については眠れない日もあった

横浜合唱協会の今までの集客力は、過去にヨハネ受難曲で1044人を動員したことがあるが、通常は700人強。2000人の動員を目指して集客を行ったことは過去に一度もない。東京芸術劇場の公演を盛況で終えるためには客席の70%以上、

1400人以上を動員する必要がある。私の考えた現実的な集客目標は1500名だった。しかも全席指定、なにもかも初めてで、ノウハウも無い、演奏会担当をやって以来最大のピンチでした。会員はチケットをキッチリさばいてくれるだろうか?祈る気持ちでチケット配布作業を行う。会員への配り方はいろいろ考えられたが、先ずは、「会員に現物を持ってもらう事」「席はなるべく平等に配る」ということで、会員が等しくチケットをお客様に手渡す事を求めました。チケットを渡す時期が遅れたので、拡販方策も十分に行う事が出来ないのではないか?と言う不安。また、チケットが動き出す前にいろいろな苦情が聞こえてきて、自分の信念が何度揺らぎ潰されそうになったことか?

PRは考えられる事で出来ることはとにかく全部やったと言うのが実感。チラシ、新聞社の記事などは反響が帰って来て手応えを感じた。よくぞあれだけ多くの記事が新聞に取り上げられたと思う。

★みなさんに期待すること

7月末頃の練習で「チケットを寄付してください。」とお願いしたときに多数のチケットをまとめて返券してきた人が多数いました。今回は助かりもしたのですが、この事がどれ程演奏会担当を失望させる事か考えてください。今回のチケット配布もそうでしたが、チケットをお客さんに渡すことに熱心な方とそうでない方がいます。

「お金を出せば参加できる」というのはかなり恵まれた団体だけで、横浜合唱協会を含め、多くの合唱団はお客さんを呼ぶのも会員の責任だと言うことをもっと考えて、自分のチケット枚数の7割以上のお客さんを連れてきてほしい。今回それに満たなかった人は大いに反省して欲しい。

★チラシデザイナーの苦悩

チラシは他の演奏団体のチラシに紛れ込まない様なインパクトと仕上がりを目指して作成した。従って、サイズは初めてのA4、最大2色刷りという制限の中で、他団体のフルカラーのチラシに負けない仕上がりというのはとても難しい課題だが、まあ上手くいったと思う。使用した緑色は私が感じているライプツィヒのイメージを色に置き換えたもの。チラシをデザインする事はとても大きなエネルギーが必要で、私の場合、検討を始めて構想が纏まるまでに1月近くかかる。構想を印刷所への説明資料(原稿)にするのに1週間ちょっと。色数が少ないので微妙な色の選択と濃淡だけで表現する水墨画のような作業。こんな事をもう10年続けている。チラシと言っても私にとっては大切な作品、完成したときの喜びをやる気に代えて頑張ってきたが、そろそろ新しいデザイナーが現れてくれることを期待している。

★直前になって

ビラーさんが来日してからは全く息が抜ける時間はありません。今回は、ビラーさんが直前までライプツィヒのBACH FESTで忙しかったので、来日後に細かい部分が決まっていった。例えばレクチャーにピアノを使うこと、レクチャーの本番に休憩を設けないことなどが前日に決まり、私とホールの担当者を慌てさせた。(ホールでは休憩中の珈琲ラウンジの営業手配などをやっていて、それらの調整で青くなった。)8/3、練習後に翌日に会員に配る為の当日の振る舞いの資料を作成したが、完成は8/4深夜。ひまわりの郷では、急遽ソリストの練習場所を確保する。ブロイティガムの補足資料も前日に作られその日の内に500枚のコピーに食事の時間を充てた。8/4のひまわりの郷ではフラフラで立っていることがやっとの状態だった。

★戦いが済んで

レクチャーで500人以上、演奏会が1500人以上の動員とお客様と演奏者がそれぞれ満足できる結果が残った。「大事に至らないで良かった」様な失敗はいくつもあった。チケットをさばく為に、様々な形で協力し努力してくれた会員の方々に本当に感謝申し上げたい。但し、チケットのやり取りについては、会員間に不公平感が生じていたのも事実、当日までの作業分担など、演奏会運営の課題は多く、次回以降に改善していきたい。

★演奏会でお世話になった方々

長い間にわたり演奏活動をしていると、様々な形で私たちの演奏を支えてくれている人たちがいます。過去10年くらいを遡り、演奏会の裏方に絞ってあげて見ました。

【谷口幸一郎さん】私が演奏会担当をする前から、ずっと公演の受付業務を手伝ってくれている受付スペシャリスト。この人に任せておけば間違いはないという安心感がある反面、もうこの人しかYCSの受付を知らない、と言う危機感もある。【西山龍太郎さん】アマチュアの録音愛好家、神奈川県立音楽堂でのコンサートの録音のほとんどを担当してくれている。【三橋さん】県民ホールチケットセンターの職員。今回のチケット騒ぎで最もお世話になった方、献身的な努力でチケットの発券を進めてくださった。【吉崎さん】アルトのお母さんは、いつも維持会員の方との連絡、友の会というDMメンバーへの演奏会案内の発送(一回に500通以上)をしてくれています。ラベル印刷のために買われたワープロはもう2台目になるとか。【山陽印刷(株)】いつもチラシ、パンフレットなどの印刷を頼んでいます。チラシはいつも微妙な色使いや、難しい印刷効果を私が求めるので、仕事とはいえ結構苦労してもらっています。「一色での印刷ではこれ以上は無理です。」と何度言われた事か。他にも多くの人達に支えられて私たちの活動が成り立っている事を最後に申し上げておきます。感謝。

(会員)

 

マルコ受難曲の曲目解説を担当して

入澤 三徳

「マルコ受難曲」のプログラムに曲目解説を寄稿した立場から、そこで配慮した点を二・三まとめて置きたいと思います。

第一点は、「勉強会」の成果を生かすことでした。

YCSがJ.S.バッハの大曲に取り組む際に、練習と平行して勉強会を開き、ドイツから取り寄せた当該曲目に関する手頃な解説書の和訳を試み、これを参考資料として全員に配付することは、今や慣例として定着したように思われます。

勉強会は、「ヨハネ受難曲」(1996年)、「クリスマス・オラトリオ」(1999年)に続いて、今回(*)で3回目を数え、さらに「マタイ受難曲」(演奏計画とは別建て)が進行中です。ここに至るまでには、藤井良昭氏の情熱と企画力、それに今回のレクチュア・コンサート講師でもあられる栗原 浩氏のご指導に負うところが大きく、この機会にあらためて深甚の敬意を表するものです。
(*)今回の勉強会(1999年8月〜2000年3月)は、藤井良昭、鳥山純一、齋藤美沙子、富澤尊儀、入澤三徳、大石康夫(担当順・敬称略)の6名が分担し、原典にはグスタフ・アドルフ・タイル著「J.S.バッハのマルコ受難曲(BWV247)」を選びました。

勉強会の成果を生かすことは何も今回に限りません。ただ、「マルコ受難曲」が復元・補作を要する珍しい作品だけに、私たちが演奏した版の補作者であるブロイティガム氏と、勉強会原典の著者で別の版の復元者・補作者でもあるタイル氏の間で、発想・技法などに大きな差異が見られたため、今回の解説に当たっては何かと留意点が生じました。

配慮した第二の点は、ブロイティガム氏の現代音楽をどう扱うかという点でした。

殊に、作曲家の見解について情報が得られぬまま原稿を書くという不確かさに悩まされたが、結局のところ、詳細はブロイティガム氏ご自身のレクチュア・コンサートにお任せして、サラリと書くしかないと割り切りました。楽譜に基づく分析は妻・洋子(アルト)に依頼しました。後日到着したブロイティガム氏のご挨拶文を読んだとき、妻は我が意を得たりとひそやかに快哉を叫び、私は私なりにホッとひと安心した次第です。

第三の点は、受難曲の持つドラマ性を考慮して「あらすじ」を掲載したことです。

裏を返せば、やはり「あらすじ」は省けなかったとも言えます。今回は齋藤美沙子氏の苦心作である「字幕」が強力な援軍として登場するので、反面、あらすじを曲目解説に載せる意味合いは薄れるという判断も当然ありました。それでも敢えて載せることで補完的な効用があり、字幕が読めなかったという人にもそれなりにお役に立ったようです。

(会員)

 

演奏会担当として

飯島 龍哉

YCSの歴史に残る一大イベントとなった「マルコ受難曲」演奏会。結果的には大成功のうちに幕を閉じましたが、今回はYCSにとって初めての試みが目白押しで、その準備期間はこれまでになくスリリングで新鮮味あふれるものとなりました。

準備は最初からつまずきました。宣伝のチャンスが増えるGWよりも前に、皆さんにチケットを配布することができませんでした。立ち上がりの悪さと見通しの甘さ。私が4月まで仕事に忙殺され、演奏会のことを気に掛ける余裕がまったく無かったことも一因でした。2000人規模のホール、しかも全席指定、これが最大の課題でした。一部の若人からはチケット配布方法に対する鋭い批判の声も上がりました。何が最も適切なやり方なのか誰も確信を持てない中、皆で最良の方法を模索していました。プログラムの準備でも随分とはらはらさせられました。原稿締切日を過ぎても一向にドイツからビラー氏とブロイティガム氏の原稿が届きません。最終的には両氏とも約束を守ってくれましたが、もし校了に間に合わなったら1ページ分がら空きになってしまうところでした。

朝日マリオンに採用されたお陰で、新聞の宣伝効果の絶大さも知ることになりました。結局、251名の方からチケットプレゼントの応募が集まりました。また同時に抽選というもののいい加減さも自ら悟りました。皆さん、抽選に応募する時には何かしら募集者側の気を引くようなコメントとかイラストを書いた方がお得ですよ。演奏会担当の内部ではいつに無く不響和音が高まりました。業務の責任範囲が明確でなかったり、担当者が期待通りに動いてくれなかったり。でも、各自自分の持てる能力の範囲内で精一杯頑張っていたのだと思います。私もしばらくの間、何をしに会社へ行っているのか判らない時期が続きました。平日の日中、YCS関連のEメールが会社のモニター上を飛び交っていました。

今回演奏会の業務が円滑に回転したのも、団員の皆さんのさまざまなご協力があってこそと心より感謝しております。ただ、我々演奏会担当メンバーが一般の方々に比べて本来の目的である"音楽する"ことに集中できなかったことも確かです。トーマスカントルであるビラーさんの指導を受けつつも、同時に何か他のことを心配している。そういう状況が多々ありました。仕事なのだから仕方ないとはいえ、本当はもっと音楽に集中したかった。それが本音です。他の演奏会担当もそういう想いを抱いているのではないでしょうか。それを少しでも実現するためには、もう少しずつ団員の皆さんに演奏会を作り上げる過程に参加していただければ良いのかも知れません。

今後の皆さんの参画に期待いたします。どうも有難うございました。

(会員)

 

演奏会担当として

志村 知子

音楽が好きで、歌うことが好きで、毎週の練習が楽しくてしょうがなかった私が、「演奏会担当」になってしまいました。雲行きが怪しくなってきました。どうやら、「心安らかに音楽に没頭する時」は過ぎ去ってしまったようでした。

特に今回の演奏会は規模も大きく、その上「初めて尽くし」。怒涛の日々でした。何よりプレッシャーだったのは、きちんと決める間もなく、実行していかなければならない問題の山でした。もっと時間があったら‥、演奏会担当の中でしっかり話し合いができれば‥、と何度思ったでしょう。仕事の片手間に、というにはあまりにも対する事柄が多く、また大きすぎ、一時は仕事が片手間になっていました。また練習中も、歌うことになかなか集中できず、もどかしく、悔しい思いもしました。まさに半べそ状態でした。

でも今振り返ってみて、今回の演奏会で得たものはとても大きかったな、と思います。「できることがあったら、何でも言ってね」と声をかけてくださる方々、一体どうしたらいいの?と途方に暮れているときに的確なアドバイスをしてくださる方、また、演奏会担当には直接届いてこない「声」を知らせてくださる方、「演奏会担当の役割」について気づかせてくださった方もありました。有難いなと思いました。

また、今回は初めてお客様と直に、接することになりました。それも印象深いことでした。開場の30分以上も前からいらしてくださる方、見るからに「通」っぽく、半端な演奏じゃ許さんぞ、という雰囲気を醸し出している方‥。受付方法が複雑だったため、行列ができてしまい、少々御立腹だった方‥。いろいろなお客様がいらっしゃいます。私たちの演奏会はこういう方々が聞いてくださっているんだなぁ、と実感としてその存在を知ることができました。

受付のお手伝いをしてくださる方への仕事の説明、分担の割り振り、案内板や机の設置、ホールの方との最終打合わせ、いろいろな問合わせへの対応‥。「そんなこと、私に聞いたってわからないよー。」と内心では思いつつ、どうもこれは今すぐ私が決めて、進めていくしかない状況のようでしたので、ハラを括りました。これらのことも私にはとてもいい経験でした。

レクチャーコンサートが終わり、帰られるお客様のなかに、明日もまた来ますよ、と微笑んでくださった方があり、嬉しくなりました。

8月6日、ステージにあがり、ホールいっぱいのお客様を見たとき、ほっとして涙が出ました(これから歌うのに!)。また、演奏が終わり、拍手を受けているとき、とても幸せな気持ちになりました。私たちに対して暖かいものをもって拍手してくださっていると感じました。「本当によかったね、大変だったしょう、でも今は満足でしょう。」といってくれているように思いました。お客様の表情があんなに胸に響いたのもはじめてです。

演奏会が終わって会員の皆さんが「よくやってくれましたね」と声をかけてくださり、それまでの大変だったことはみんなどこかへ飛んでゆきました。拙いながら一所懸命やってよかった、少しはお役に立てたかな、と思いました。

YCSにとっても記念すべき演奏会でしたが、私にとっても皆さんの心意気、実行力、温かさなどを、たくさん知ることのできた大切な演奏会でした。

いろいろな問題も見えてきました。考えるべきことはたくさんあります。

この経験を活かせるよう、もう少しがんばってみようと思います。

(会員)

 

記念演奏会 表舞台そして裏舞台

黒木 孝行

「横浜合唱協会 団員募集」の広告が音楽の友にあり、「テノールの方大歓迎!!!」という文字のかもしだす雰囲気に誘われ今年1月下旬に入会しました。見学ではテノールの人数以上の声量にまず度肝を抜かれ、その動揺がおさまるとYCSの技術力と集中力に驚きました。テレビの制作会社を職場とする私が、毎週土曜日に60%の出席率をキープできるのか、またマルコ受難曲という大曲を歌えるようになるのか不安ではありましたが、見学の後の歓迎会での和やかな雰囲気の中で「やってみよう」と決心しました。

記念演奏会にむけて、我が家ではお盆と正月が一度にやってきたような賑やかな半年となりました。というのも妻が3年前から打ち込んでいるフラメンコの発表会が7月30日、記念演奏会が8月6日であったので、狭い我が家の一方では、ギターとカスタネットが「オレ!オレ!」と鳴り響き、もう一方でバッハのモテットの音取りが「Nicht! Nicht!」と響く…それぞれの本番までなんとも有意義な生活でありました。

今回は初めての演奏会でしたが、6月半ばから「字幕」と「記録ビデオ」に携わりました。演奏会字幕は仕事でも未経験分野でした。7月上旬からアルト齋藤さんに原稿をお願いしまして、字数制限のもと480枚もの原稿を作成し、通し番号を振って楽譜に番号を書きこむ作業を行いました。齋藤さんとともに喫茶店で缶詰になりながら完成させました。演奏会会場で字幕が映し出された時は本当に嬉しさがこみあげてきました。

また記録ビデオも、福音史家と合唱が2階にわかれた演奏形態でどうやって撮るか、ビデオ業者さんと実のところ頭を抱えました。3台のカメラでモニターに次の絵柄を待機させておいて順次切り替えて撮影しますが、切替えがなかなか難しい。レクチャーコンサートの時は私もカメラ卓に座り、業者さんに次の演奏を伝えていく方法で撮影。記念コンサートは対訳原稿を拡大コピーして、オルガン(上)→福音史家(上)→指揮者(下)→合唱(下)というふうに位置を記入して撮影にいどんでいただきました。演奏後は業者さんも汗びっしょりになりながら「これだけの大盛況だったので、いいものが撮れました」と笑顔で言って下さいました。

私にとって初めての演奏会で表舞台は大観衆のあつい拍手にとても感動しました。それとともにステージ後「本当にステージにのったの?」と数名の方に聞かれるほど舞台裏の記憶もまた鮮明に残っています。

翌日からの仕事の打ち合わせが急に入り、打ち上げには参加できませんでしたが、大きな満足感を胸に会場を後にしました。打ち上げでは新会員恒例のスピーチがあるという話を事前に聞いていたので、実は少し考えていたことがありました。それは横浜合唱協会に入って、これまでの仕事中心の生活から「音楽」中心の生活に変わったことです。ここ数年仕事で夜も遅くまで働き詰めで、妻から合唱を勧められても「そんな時間はない」と思いこんでいました。「やってみよう」という積極的な気持ちは大事なことだと実感しております。合唱と仕事の両立はこれからの人生のテーマになると思いますが、積極的な気持ちを継続したいと思います。

(会員)

 

横浜合唱協会設立30周年を祝して

富澤 尊儀

横浜合唱協会設立30周年お目出とうございます。衷心よりお祝い申し上げます。また、バッハ没後250年を記念しての現トマス・カントルのビラー氏指揮による東京での演奏会が大成功を収め、しかも、普く好評を博したと承り、まことに嬉しく御同慶の至りに存じます。

私は、タイルの論文 (Gustav Adolf Theill, 1978) によるバッハのマルコ受難曲の勉強会に参加させていただき、また、自分でもタイルによる復元譜を調べておいていたこともあって、8月5日のレクチャー・コンサートと8月6日の定期演奏会でのマルコ受難曲は以前から大いに楽しみにしていたのですが、7月31日の深夜心臓発作を起こして救急入院する羽目となり、拝聴することができませんでした。実に不運で且つ残念でありました。

マルコ受難曲は、確実と思われる部分の復元譜(Diethard Hellmann、1964)で演奏されるほか、これにマルコ福音書の聖書章句の朗読を加えたり、音楽の失われたレチタティーヴォと群衆合唱をバッハのマタイ受難曲などから借用する方法をとったり、あるいは、レチタティーヴォと群衆合唱を全面的にカイザー(Reinhard Keiser, 1674~1739)のマルコ受難曲からそのままそっくり借用編曲した形で演奏するようなこともなされております。

今回の演奏会におけるマルコ受難曲は、これらのものとは一段と異なり、音楽の失われた部分を現在活動中の作曲家ブロイティガム氏が、福音書の語るところがよく分かるように補足し作曲した斬新なものでありましたので、非常に興味を抱いていただけに、ボヤキの繰り返しですみませんが、急病で生演奏を聴き損なったのは本当に残念だったのです。いずれ録音を鑑賞させていただきますが、これでは私の不満は拭い去られません。

そこでお願いがあります。将来もしも機会がありましたら、タイルの復元譜によるマルコ受難曲を演奏していただきたいのです。タイルの鋭い洞察力と大胆な推理力には目を瞠るものがあります。マルコ受難曲の群衆合唱Er hat andern geholfenは追悼頌歌(BWV 198)の第7曲An dir du F_rbildのパロディーであり、また、クリスマス・オラトリオの第21曲Ehre sei Gottの一部分とマルコ受難曲の二つの群衆合唱Kreuzige ihnとは同一曲である等等の見解や論拠には強い説得力があります。その他、タイルの復元譜での群衆合唱は殆どバッハのカンタータから、場面にふさわしい曲が転用されています。一方、受難曲はといえば、やはり福音書史家のレチタティーボは絶対に欠かすことができません。音楽の失われたレチタティーボは、タイルがバッハには遠く及ばないにしても、バッハは、多分このような情感を抱いて作曲したであろうと考えて補作しました。タイルの手になる完全復元譜でのバッハのマルコ受難曲を、いつの日か横浜合唱協会が取り上げてくださることを要望し、演奏の実現を期待します。

以上、お祝いとお願いを申し上げました。横浜合唱協会の今後の更なる発展を祈念いたします。

(維持会員)

 

30周年記念演奏会に寄せて

友田 晃利

就職してから遠ざかっていた合唱を、しかもそれまで一度も歌ったことの無かったバッハを歌いたい、という思いで、学生時代の親友から紹介してもらってYCSを訪れたのは92年の2月でした。そして、最初に歌ったのがバッハのモテット1番だったのです。その時、「何と言う難しい曲を、みんな何と楽しそうに歌っているのだろう。」と感激し、それ以来、バッハに、そしてYCS自体にのめりこみ、気がつけば8年間も続けていました。残念ながら2000年の2月を以って一時活動休止していますが、今は充電期間と考え、また活動を再開してみんなと一緒にバッハを歌いたいと切に思っています。

ところで、今回初めてYCSの演奏を、それも東京芸術劇場でビラーさんの指揮によるマルコ受難曲という記念碑とでも言うべき演奏会で聴く事が出来、演奏中から終わった後も、これまでの色々な思いが脳裏に浮かび、本当に感慨深いものとなりました。

第1曲目の最初、みんなの声が出た途端、まとまった美しい響き、これまでずっと練習で聴いてきたなつかしい音が、芸術劇場全体に広がり、YCSの実力がこのような大ホールでも十分通用するものであり、本当に良い合唱団であるなあと嬉しくなってしまいました。

YCSがこれまで築いてきたもの、自分も一緒になって目指してきたものが今こうして目の前で音の集大成となって表現されているのをその場で共有できたのは、本当に幸せなことでした(本当は歌う側に居たかったですが)。

私がYCSに参加してから今回の演奏会のレベルにまで辿りつくのにかなりの山谷が有ったと思います。アカペラでの辛かった演奏会、そこからのみんなの踏ん張り、ヨハネ受難曲、ドイツ旅行での盛り上がり、そして21世紀を目指した活動(レパートリー、世代交代等)、これらすべてが音となって伝わってきたように思います。

特に私はプロデューサーグループとして大石さん、馬岡君、山田(都)さんらと共に合唱団の演奏計画を考えて来ました。YCSを単に横浜でバッハを歌っているだけの合唱団ではなく、日本一のバッハ歌いの集団にしたい、なりたいと考え、活動しているみんなの顔ならぬ声が次々にこちらに届いてきているように感じました。

今回のような規模の大きい、しかもバッハイヤーとしてプロを含めてもダントツに優れた企画・実行が出来る合唱団は他には無いのではないかと思います。このようなことが出来るのも団員一人一人の歌を歌う、音楽を創造することへの情熱の賜物であり、これが有る限りこの先何十年も(ひょっとしたら百年以上)活動を続けて行くことが出来ると思います。

またいつか、私もみんなとの音楽創造に必ず再び参加します。

それまでみなさん、バッハが歌える幸せを忘れず頑張って練習に励んでください。まだまだ基礎的な技術面で至らないところが顔を出していましたので。次のアカペラは強敵ですよ。(私が選曲したのですが!)

(維持会員)

 

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